【開催報告】エラスムス・ムンドゥス修士課程〈ユーロフィロソフィ〉法政プログラム2016「エコロジーの新たな展開― 一人称エコロジーと自然の詩学」(2016.06.13)報告記事を掲載しました2016/06/30
エラスムス・ムンドゥス修士課程〈ユーロフィロソフィ〉法政プログラム2016
主催:法政大学国際日本学研究所環境・自然研究会
「エコロジーの新たな展開/一人称エコロジーと自然の詩学」
日 時 2016年6月13日(月)18時30分―21時00分
会 場 法政大学(市ヶ谷)ボアソナード・タワー25階B会議室
講 師 ジャン=フィリップ・ピエロン(リヨン第3大学哲学部教授、学部長)
通 訳 松井 久(法政大学非常勤講師)
司 会 安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所員・文学部教授)
左から:安孫子信氏(司会者)、松井久氏(通訳)、ジャン=フィリップ・ピエロン氏(講演者)
2016年6月13日(月)、法政大学ボアソナード・タワー25階B会議室で、法政大学国際日本学研究所環境・自然研究会主催で、ジャン=フィリップ・ピエロン氏の講演「一人称のエコロジーもしくは詩的エコロジー」が行われた。
枯渇しつつある水、砂漠化、地球温暖化、水質汚染を前にして、環境運動は、来たるべき破局を語り、環境に対して我々が果たすべき責任を語る。科学的証明に依拠して、エコロジーの観点から見てより倫理的な行動を促しているのである。しかしエコロジーは、ラディカルになるに従って、他の生物、他の人間、自然との結びつきを単に表象するだけでなく、生き生きと体験することを求め、われわれのあり方そのものを問い直す。こうして、感受性を育むことが問題となり、エコロジーは美的なものとなる。詩的エコロジーと呼ばれるものは、詩人の声に耳を傾けながら、このようなわれわれのあり方、感受性の問題に取り組む。
水の詩学は、単に生彩に富んだ装飾的な表現によってわれわれの共感を呼ぶものではない。われわれに宿り、われわれを動かして自己を変化させ、自然との関係を変えるようなイメージを与える。このイメージによって、われわれは自然への帰属をまさに生き、他の人間のみならず、動物、植物そして水や大地といった環境と連帯を結ぶ。こうして詩的エコロジーは、現代の道徳的、政治的エコロジーが要請するような自然への態度の変革の条件となる。
また、科学と経済は水を生きるために必要な、開発すべき資源として見て、水を支配、管理、分配しようとする。これに対して、詩人は、世界内存在あるいは世界への帰属というわれわれの根本的なあり方を現前させて、水が支配、管理、分配される前の段階にわれわれを連れていく。水の詩学がもたらすイメージが、一方で世界をステレオタイプによって操作する出来合いのイメージを根絶させ、他方で科学の実践的な配慮に先立ち、実りある探求の着想を与えるのである。
現代、科学の発達は、水不足の問題は科学技術によって解決可能であるという幻想と、水を活用すべき資源としか見ない行き過ぎた人間中心主義を生み出す。これに反発して、水を神聖化し、生命の起源と考えて、人間の水に対する倫理的政治的責任を強調するエコロジーが生まれる。人間の根源的なあり方である世界への帰属を生きようとする、一人称のエコロジーあるいは詩的エコロジーは、これら両極端にある二つの立場の間に位置するのである。
講演後の質疑応答では、1)詩的エコロジーとイメージを商品として扱う詩的経済との緊張関係をどう考えるか、2)フーコーの自己の配慮との距離、知の問題、3)水の形而上学と水の政治学の関係をどう理解するのか、4)詩的エコロジーが問題にする一人称とは私か私たちか、等の論点をめぐって議論が展開された。
【記事執筆:松井久(法政大学非常勤講師)】
会場の様子