【開催報告】国際日本学研究所環境・自然研究会ワークショップ(2016.03.22)2016/03/30
国際日本学研究所環境・自然研究会ワークショップ
研究発表「環境とリズム:和辻哲郎の倫理学を手掛かりに」
日 時: 2016年3月22日(火)16時00分~18時00分
場 所: 法政大学九段校舎別館3階 研究所会議室6
発表 : 犬塚 悠(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員、
発表 : 犬塚 悠 東京大学大学院学際情報学府博士課程、日本学術振興会特別研究員)
司 会: 安孫子 信(法政大学国際日本学研究所所員、文学部教授)
発表者:犬塚悠氏
2016年3月22日(火)、法政大学九段校舎別館3階研究所会議室6において、研究発表「環境とリズム:和辻哲郎の倫理学を手掛かりに」が行われた。発表の概要は以下の通りであった。「環境」とは何か。「環境」は今日頻繁に用いられる言葉であるが、その概念の歴史は浅く、まだ200年にも満たないという研究結果もある。「環境」は時に「自然」を意味することもあれば、「社会」・「空間」・「物」を意味することもある。場面に応じて様々な意味を持つ「環境」を、辞書は一般的に「外界」と定義している。本発表者が試みているのは、この「人間と外界」という図式の再考である。今日この問題にアプローチできる分野は文理問わず数多くあるが、本発表が特に取り上げるのは近代日本の倫理学者、和辻哲郎(1889-1960)の思想である。具体的には彼の風土学・倫理学の形成に伴って発展した環境論を、特にハイデガーとディルタイとの関連において追い、その中で見出された彼のリズム論・信頼論に着目した。和辻は、ドイツ留学の直後1928年秋に京都帝国大学にて国民性を巡る講義を行った。国民性における地理的要因の考察において、彼はハイデガーの『存在と時間』を手掛かりとしている。和辻は、ハイデガーが「人間と外界の対立」を問い直したこと、そして物との関わりにおいて世界と自己を同時に見出す「世界内存在」としての人間像を示したことを高く評価する。しかし一方で、ハイデガーがハンマーや釘等を例とし「~のための」という連関において世界と人間の自己了解を示したことについて、和辻はこの例では人間から環境への働きかけという能動的側面しかみられていないと批判した。代わりに和辻は、着物や家の例を通じて環境の感受という側面を明らかにする。ハイデガーの考察において気分はどこからともなく湧きあがるものであるが、現実においては我々の気分はまず「寒さ」などによって大きく色づけられており、そこから着物や家などが製作される。「~のための」として求めずとも与えられるこの環境の負荷的性格は、和辻の倫理学研究における社会性の観点とも重なり、後の『風土』においては人間存在の「風土性」として考察されるようになる。帰国後和辻は自身の倫理学形成に本格的に取り組み、岩波講座哲学「倫理学」(1931)では「間柄」概念を提示している。人間を孤立した個人としてではなく、人と人の間において捉える「間柄」概念は、後の『人間の学としての倫理学』(1934)において「行為的連関」という概念に展開されている。その背景にはディルタイの解釈学がある。ディルタイは、客体を扱う自然科学に対し、主体が主体自身を扱うという人文学の難問に取り組んだ。そこで彼が提示したのは、「体験・表現・了解の連関」である。各人の「体験」は「表現」として言葉・作品などに客体化される。人はこれらの表現に各々の体験を移入し「了解」することで人間の生に近づくことができるとディルタイは主張とした。和辻はこのディルタイ解釈学の基本構造を自分の倫理学の理論に採用しつつも、芸術作品や自伝を対象とするディルタイの「表現」は個人的体験に限定されているとし、対して倫理学では各人の体験の基盤にある「行為的連関」に着目する必要を唱えた。行為的連関は身振り、言葉、さらには家、畑、山などいたるところに「表現」され、さらにそれらの表現を連関は了解し発展するのである。和辻の環境論は『倫理学』(1937-1949)においてひとつの結実を見る。この著作においては、時空間さえも人間なしには存在しないとされるのである。行為的連関における我と汝の間の合一や対立は内と外といった一種の空間を作り出す。いわゆる社会も通信・交通によって形成・変形されるある種の空間であり、自然科学的空間はそのような人間存在の空間性を抽象したものなのである。また時間も、過去の間柄から未来の間柄へと向かう人間存在の時間性から発するものである。この人間関係において繰り返される「時」は、人間の行為的連関に「リズム」を与えている。具体的には昼夜の交代、月、季節、年といったリズムに従って、人間は日々の行動様式を定めることになる。このリズムは、物理的自然科学的なものを意味するのではなく、人間の共同生活を根拠として生まれるリズムである。そしてそのリズムが逆に行為的連関を支えているのである。このような人間存在の空間的時間的構造は、互いの未来に期待し合う信頼関係の基盤であり、信頼に応えるか否かという人間の善悪の根拠でもある。近代的世界観の登場を、B. ラトゥールは「外的世界という奇妙な発明」(Pandora’s Hope, 1999, 3)と呼んだ。我々は外界として対立する空間に生きているのではない。我々が生きているのは動的な行為的連関である。その連関は変化を続けつつも、その基礎にある反復的なリズムをもっている。人間の信頼関係・倫理的生活はその中に成り立っているのである。一方で、『風土』における和辻の実例分析が環境決定論的であると批判されるように、この複雑な現実の分析は容易ではない。しかし、資本主義の論理と技術開発による「眠らない社会」(J. Crary, 24/7, 2014)に代表されるような今日の状況において、我々が生物学的な生存のみならず倫理的な生活を続けるためには、このリズムについての認識が様々な分野において展開される必要があるのではないだろうか。
以上の犬塚の発表の後、一般市民を含む参加者との1時間に渡る活発な質疑応答が行われた。その内容はバラエティ豊かなものであったが、中でも特に和辻の倫理学が成立した当時に比べて今日の社会のリズムが多元的になっていることに言及するものが多かった。まさにこのリズムの多元性に今日「善く生きる」ことの難しさの一因があり、和辻倫理学から今日の社会を再考する意義があると考えられる。一人の参加者の言葉通り、今後もアカデミズム内の議論に留まらずに社会の様々なアクターと協同する必要性も再確認された。
【記事執筆:犬塚悠(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】