第3回研究会『イーハトーヴと賢治の日本・国際意識』(2012.10.12)
「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」
2012年度 第3回研究会
報 告 人見 千佐子 (法政大学国際日本学研究所学術研究員)
日 時 2012年10月12日(金) 18:30 – 20:30
会 場 法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階国際日本学研究所セミナー室
発表の様子:人見 千佐子 氏
イーハトーヴと賢治の日本・国際意識
− 浮世絵の観点から −
宮澤賢治は国を問わず様々な言葉や地域、文化が混在したイーハトーヴという世界を創造した。その意味で日本と海外の間に境界線をひくということから一番遠い作家ではないだろうか。しかし近代化の波が東京から賢治の住む岩手県花巻に及ぶに従い、そして東京に執着し何度も上京を重ねるに従い、生身の賢治は何かしらの日本意識を持つに及んだことは想像される。例えば物語世界に反映されることはなくても、賢治が残したもののなかからその手掛かりを探すことはできないだろうか。花巻は勿論のこと、仙台や東京で浮世絵を買い集め、その収集数は三千枚から四千枚とも言われている。上野で展覧会があると聞けば展示が入れ替わる度に会場に足を運ぶ、それだけ浮世絵に魅せられていたのである。
「浮世絵版画の話」
浮世絵に関する評論「浮世絵版画の話」には賢治の浮世絵観が色濃くうつしだされている。浮世絵のもつ単純性、韻律、神秘性、工芸美、そして安価であることはもっとも賢治をひきつけた。この視点の中には同時代の海外収集家達のものと共通するものがある。例えば建築家のフランク・ロイド・ライトは日本の文化に触れるに従い、その精神性にひきつけられていくが、彼が最も称賛したものは「単純化」であった。そしてその単純化こそが(浮世絵)版画に見られた、と言っている。また、「ぜいたく品でないこと」という賢治の文言からは、芸術が人口の一割の富裕者しか享受できない、と嘆いたトルストイの影響が感じられる。浮世絵に関する海外の評論に触れること、そして国の境界を超えて芸術について考えることは、結果的に外側からみた日本の芸術という視点を賢治に与えたのである。
詩「浮世絵展覧会印象」
賢治の浮世絵観は詩「浮世絵展覧会印象」の中でも雄弁に語られている。中でも浮世絵の持つ物理的な性質、つまり楮でできている浮世絵は湿気や気温によって(体積が)増減するが、それは呼吸であるといった点や、展示室に掲げられた浮世絵の人物たちは神秘的な笑いを浮かべつつ観覧客に語りかけようとする、その様を描きだしている。このことは「浮世絵版画の話」の工芸美に関する文にも同様の記述が見られ、特に重視している点だという見方もできる。
同時代の作家たち
例えば永井荷風は『日和下駄』の中で東京の景色を北斎の名所絵と重ね、消えゆく江戸の情緒を惜しんだ。彼はまた多くの海外の浮世絵研究者の論評を読み、当時日本よりだいぶ進んでいた浮世絵研究を紹介している。海外に散逸した浮世絵を嘆く点、春信の初期の色使いを好む点など、賢治との共通点は多い。
泉鏡花の描く異世界はイーハトーヴと性質上似ているところがある。「国貞ゑがく」では浮世絵の世界とあの世とこの世が複雑に入り混じる。賢治のいう四次元とは三次元に時間、思索、永遠といったものが加えられたものであるが、それは勿論あの世との関わりも深く、特に妹トシの死によってその意義も深められていく傾向があった。
「国貞ゑがく」の物語の人物と浮世絵に描かれた姉様達との次元を超えた交信は、まさに賢治が「浮世絵展覧会印象」で描いた世界と同様のものである。
賢治と日本意識
童話作品中、形容の目的や、外国と並べて単なる一つの国として扱う以外は、賢治は「日本」という単語を使わなかった。しかし、浮世絵展覧会の為に上京した1928年、東京をモチーフにして書いた多くの詩には「日本」という単語が合計六回使われ、その多くが海外諸国に対する日本、国としての日本という意味を含んでいる。
賢治は童話を創作するうえで、日本と海外との境界線を明確にすることはなかったが、この浮世絵展覧会のための上京のタイミングでそういった意識は一度に賢治の中に流れ込んできたのではないだろうか。つまり西欧由来の近代文明に流されつつあった東京の姿と、海外諸国によって新たにその価値を見出されていた、海外に誇れる日本芸術、浮世絵を同時に認識した時、日本という国の相対化がおこなわれたのである。
発表後の意見交換では、賢治の詩でとりあげた浮世絵についてさらに踏み込めないか、詩の中の伏字についてのさらなる検証が必要ではないか、また賢治が収集していた浮世絵の傾向を知る事はできないか、等の質問の他、賢治は浮世絵そのものに触れていた印象を受ける、他の童話作家の「日本」という言葉使用についての比較やナショナリズムとの兼ね合いも気になる、というコメントをいただいた。また、賢治自身の自然観や芸術観に関する立場といった大きな問題について活発な意見交換が行われた。発表者としては新たな視点も加わり、今後の課題もより明確となった。より一層の研究を重ねていきたい。
【記事執筆:人見千佐子(法政大学国際日本学研究所学術研究員)】
司会:田中 優子 教授