【開催報告】第6回アルザス・新世代ワークショップ 「現代日本のトランスナショナルな変容」(2023年11月17日・18日・19日)2024/01/26
開催報告
第6回アルザス・新世代ワークショップ
“Transnational Change in Contemporary Japan”
「現代日本のトランスナショナルな変容」
■主催:
・法政大学国際日本学研究所(HIJAS)
・「国際日本研究」コンソーシアム(CGJS)
・アルザス欧州日本学研究所(CEEJA)
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2023年11月17日から19日にかけてアルザス・新世代ワークショップ「日本のトランスナショナルな変容」を開催した。本ワークショップは、法政大学・国際日本学研究所、アルザス欧州日本研究所(CEEJA)、「国際日本研究」コンソーシアムの共同開催による国際会議であり、今年度で第6回目を迎えた。主に欧州、日本の「若手(early career)」研究者を公募で募り、基調講演者、コメンテーターとともに数日間にわたって研究報告と議論をおこなうインテンシブなワークショップである。パンデミックによる影響でしばらくオンライン主体であったが、昨年から対面へと移行し、今年度は全面的な対面形式の実施に漕ぎ着けた。
「トランスナショナリズム」を前面に掲げたワークショップは、2021年度の「トランスナショナリズムと日本研究」、2022年度の「日本のトランスナショナリズムと帝国」に続いて今年で3年目となる。トランスナショナリズムの概念と視座をめぐっては、この間、基調講演、報告、討論を通じて様々に議論をおこなってきた。結論には至っていないものの、議論を踏まえた一つの仮説として「トランスナショナルな日本のカタチ」という方法論が見えてきた。それは、日本を超える現象を通じて逆照射的にナショナルな日本のカタチを浮かび上がらせるという視座と言える。国境を越える現象並びにその結果を実証的に追いかけていくことは、トランスナショナリズム研究にとって重要であることは言うまでもない。ただし、それと同時に、個別のトランスナショナルな事象を普遍的な問題へと抽象化していくことも肝要である。社会科学であれば、例えば移民のシステムやパターンなどの一般的メカニズムを解明していくことがそのベクトルであるが、地域研究では、「日本」といった地域の特性を明らかにすることが一つの抽象化の方向性となろう。そのためには、「トランスナショナリズム論に国民国家を再導入する(Bringing the State Back into Transnational Studies)」ことが重要となる。人・モノ・情報は自由に国境を越えるわけでなく、各々の国家が国際移動を様々に促進し、また制限する役割を果たしている。また国民も、国家の地政学的な位置、政策、イデオロギーなどによってトランスナショナルな現象に対する行動や意識がかたちづくられる。こうしたナショナルとトランスナショナルの相剋を捉えていくことで、一国的に見ていくことでは捉えきれない、新たな日本のカタチが見えてくるのではないだろうか。
こうした認識を踏まえて今年度は、戦後から現代にかけて日本におけるトランスナショナルな変容がどのように生じてきたのか(しているのか)、またトランスナショナリズムが現代文化のあり方にどのような変化をもたらしているのかについて考察する報告を募集した。テーマの広さからか、またパンデミック後の国際移動の再活性化の影響からか、今年度は例年に増して日本・欧州双方から多くの応募があった。応募者の中からテーマとの関連性に加え、分野や地域の多様性を考慮の上、13本の報告が選抜された。結果として、欧州(ドイツ・ベルギー・イギリス・スウェーデン等)とアジア(日本・中国・韓国)から、また学問分野においても人文社会科学から広く報告者を招くことができた(プログラム・要旨)。
初日の11月17日(金)は、現代社会に焦点を当て、「トランスナショナルな移動と空間(Transnational Mobility and Space)」をテーマにセッションを組んだ(司会:髙田圭)。まず、急遽登壇がキャンセルとなった基調講演者に代わって髙田圭(法政大学)が“What is Transnational Japanese Studies?”と題する報告をおこなった。本報告は、過去2回のワークショップの議論を踏まえたもので、トランスナショナリズムの概念的整理をおこない「トランスナショナルな日本のカタチ」を探る視座と方法論について論じた。続いて、現代的なトランスナショナルな事例を扱った4本の報告がおこなわれた。1つ目は、代田七瀬氏(ケンブリッジ大学)による日本人ホステスのトランスナショナルな移動についての考察であった。親密性の商品化のトランスナショナルな進展によって、日本人女性たちは、国境を越え、または、海外に残る機会を得るものの、それは「不安的な足がかり」であり、ホスト国であるイギリスの人種・ジェンダー・言語的な階層性に埋め込まれることで、親密性の商品化から抜け出すことができずにいる実情が分析された。2人目の報告者である早川美也子氏(ブリュッセル自由大学)も同じく日本から欧州への国際移動・移民について、特にフランスへの移民・移住の現代的特徴を分析している。日本人移民のあいだでは、フランス文化への憧憬がプルファクターとして機能していることは昔と変わらないが、移民の数は大幅に増加し、またその目的も一般化・多様化する中で以前の特権的なフランス移住のあり方は減退していることが示された。こうした日本人の国際移動に関する報告の後、午後の部では、トランスナショナルな場所・空間に関する報告がおこなわれた。Lenard Görögh氏(ベルリン自由大学)は、閉鎖的で硬直的な日本の賃貸住宅市場へのオルタナティブとして、近年都市部で増加するシェアハウスが、帰国子女や留学生などの受け皿になっていることを明らかにした。シェアハウス運営会社、そして入居者自身がシェアハウスの自治に関わることで、トランスナショナルな空間を作り出していることが示された。Julia Olsson氏(ルンド大学)による報告は、高知県を事例に日本の若者が地方を「海外(foreign)」として認識し、都市部から移住している実態を調査し、過去に海外に住んだ経験のある移住者が、高知と国外での経験を同列に扱いながら移住先を判断している語りも紹介された。
2日目は、坪井秀人氏(早稲田大学)を司会に「トランスナショナルな文化と多様性(Transnational Culture and Diversity)」をテーマに掲げ、人文学を中心に1本の基調講演と4本の報告がおこなわれた。Thierry Hoquet氏(パリ・ナンテール大学)による講演は、「国境のないエロティックな三島ミステリー:ディオニュソスのトランスとトランスナショナリティ」と題し、「トランス」な視点から国家主義者としての三島像を脱構築することを試みるものだった。戦前のファシズム的意識を戦後になっても引き継いでいるという三島像に対して、Hoquet氏は、むしろ三島は、「エロスとの遭遇」によって国家主義を乗り超えていたという主張を展開する。Hoquet氏によればエロスは、国境を越え、またその越境的な側面は、国家秩序を混乱させる。三島は、作品の中で、登場人物の青年の肉体美をギリシャ神話のアポロンの肉体になぞらえるなど、エロスを通じて時空を越えた想像力をはたらかせているという。そしてHoquet氏は、こうした越境性が三島を単なる政治的ナショナリストを超えた「アーティスト」へと押し上げたと結論づけた。基調講演の後、5本の公募報告者による発表がおこなわれた。田村美由紀氏(国際日本文化研究センター)は、学校教育におけるトランスナショナリティの問題を日本の国語教科書に使われている文学作品を題材に論じた。田村氏は長年教科書に採用されているドイツ人作家ヘルマン・ヘッセの作品「少年の日の思い出」に潜在するナショナルな問題を批評的に読むことを通して、トランスナショナルな教材としての可能性を主張した。続いて、現代の代表的な「トランスナショナル作家」の一人である多和田葉子の翻訳の問題を「暴力(gevalt)」という概念から解き直す試みをおこなったのは、遠藤里乃氏(ベルリン自由大学)による報告であった。翻訳は作者か読者いずれかに寄り添わざるを得ず、それ故「暴力」を伴うが、多和田の作品『文字移植』から見えてくるのは、多和田自身がそうした翻訳の暴力性を真正面から受け止め、その前に上で立ちすくんでいる姿であった。続いて、Philippe Bürgin氏の哲学・思想の観点から、1978年に行われたミシェル・フーコーと渡邊守章のトランスナショナルな対話を引き合いに出しながら21世紀における哲学の舞台としての東京を論じた。郭珺氏(上海大学東京校・法政大学)は、新儒家の代表的思想家である梁漱溟の思想から中国的なトランスナショナリズムのあり方を論じた。郭氏曰く梁漱溟の「仁愛共同体」概念は、相互扶助的・教化的人間関係を創出させるものであり、こうした思想を共有している中国系移民は、豊かなトランスナショナルな民族的ネットワークを形成し、またホスト国との調和的融合が可能になっていると論じた。2日目の最後の報告は、川坂和義氏(デュッセルドルフ大学)と小林亜未氏(カイザースラウテルン工科大学)による地方に派遣されたLGBTQ+外国人教員に関する調査であった。日本の学校環境は異性愛的規範が強く、それ故、母国では自身のセクシュアリティについて公表していた人々であっても、日本の学校ではオープンにできなかった。とりわけ、非白人のLGBTQ+教員の困難はより多く、インターセクショナリティの問題が強調された。
3日目は、「トランスナショナルな歴史と政治(Transnational History and Politics)」と題したセッション(司会:CEEJA Regine Mathias氏)がおこなわれ、戦後史、そして法律やビザの問題など初日・2日目とはまた異なった角度からトランスナショナリズムの問題が扱われた。最初の報告者であるChris Park氏(立命館大学)は、1974年に東京の八王子で開催されたアジア人会議に着目し、日本とアジアの活動家たちによる経済発展や高度成長をめぐる国境を越えた抵抗の連帯について報告された。続いての報告も同様に日本人とアジア人との接触と触れ合いについてであった。Alice Witt氏(ハイデルベルグ大学)は、1987 年に朝日新聞に連載された戦争経験者による投書を分析し、日本人が戦時中の朝鮮人、台湾人、また中国人捕虜などとのトランスナショナルな出会いをどのように記憶していたのかを論じた。続いて、日本の裁判所における外国法の適応とその排除について分析したのは、Jan Felix von Alten氏(フランクフルト大学)による報告であった。国際結婚などトランスナショナルな実践においては、国際私法が関わることは少なくないが、Alten氏は在日コリアンと日本人夫婦の離婚のケースを取り上げ、日本の司法が国際法をどのように運用しているのかを検証した。その結果、日本の司法は他国に比べても国際法を柔軟に適応する傾向があり、それ故、日本の法体系には相対的な解放性があると結論づけた。ワークショップ最後のプレゼンテーションは、国際移動の不平等に関する比較政治学的分析であった。Costanza Schönfeld氏(ボルドー・モンテーニュ大学)は、日本政府の査証政策、特に観光ビザの免除対象国の歴史的推移(相手国及びその数)を統計的に分析し、他国との比較を通じて日本の特性を探ることを目指した。結果として、日本のビザ政策は、他国と比べてそれほど閉鎖的ではなく、また近隣アジア諸国よりも欧州諸国との類似性が高いことが指摘された。
以上の3日間にわたる15本の報告と議論から見えてきた「トランスナショナルな日本のカタチ」とはどのようなものだろうか。特に、現代の日本においてトランスナショナルな変容はどのように生じているのだろうか。各報告テーマは、人文社会科学から多岐にわたり、当然一般化は容易ではないものの、現代日本のトランスナショナルなカタチの断面がおぼろげに浮かび上がってきた。それは、トランスナショナルな状況が進んでいる領域とそうでない領域とのあいだに相当程度のギャップが生じているということである。例えば、シェアハウスといった日本への移民の「入り口」については、かなりの程度トランスナショナルな現象が進展しつつある(Bürgin)。こうした国際移動の増幅は、日本人にとっても同じであり、歴史的見ればエリートの移民・移住先であったフランスも、消費されるその文化的なイメージが吸引力となって一般化し、特に明確な目的を持たない短期の移住者が増加しているという(早川)。また、日本政府の厳しいビザ政策という一般的なイメージに対して、短期の観光ビザに限って言えば、欧州のそれと大きな差はないということも明らかにされた(Schönfeld)。司法の領域においても国際法を柔軟に適応していく慣習や文化も存在する(von Alten)。しかしながら、他の報告からは、こうしたトランスナショナルな解放性は、部分的だということも見えてきた。市場に牽引されるかたちで移民受け入れの「入り口」や短期の国際移動に関しては民主化している一方、長期の他国への移住あるいは定住者の受け入れに関してはどうだろうか。外国に出自を持つ子供たちの多くは日本の公立学校で教育を受けることになるが、国語教育という特にナショナルな要素が強い領域においてトランスナショナルな視点を導入することの困難は大きい(田村)。また都市部でのトランスナショナルな現象は一定度進んでいたとしても、地方のローカルな場においては、例えばセクシャルマイノリティの外国人が自身の個性を開放することは容易ではなく(川坂・小林)、また外国人の定住者とローカルな人々との摩擦がどのようなものなのかは引き続き検証が求められるだろう(Olsson)。日本人の国際移動に関して言っても、短期の国際経験の機会は増えている一方で、長期の定住の際に立ちはだかる壁は高そうだ。例えば、日本人駐在員を相手としたホステスクラブという日本的な空間から抜け出し、ホスト国に融和的に統合されていくには大きな困難が伴う(代田)。仮に国境を越え、多様な文化と折り合いをつけながら生き抜いていく力を「トランスナショナル資本」と呼ぶならば、移民の経験がネットワーク的に共有されている中国人社会(郭)と比べると日本社会にはそうした資本の蓄積は十分でないようにも感じられる。
もちろん、こうしたトランスナショナルな現象に地域間・領域間格差があることは日本に限ったことではないし、「トランスナショナル資本」の高低は同じ国の人々であっても大きく異なる。それでも、総体として見ると、両者の隔たりの大きさが、現在の「日本のトランスナショナルなカタチ」の一旦を表していると言えそうだ。それは、髙田が報告の中で示したマーケティングの観点から国別のブランド力を測ったグローバル・ランキングで日本は上位に位置づけられる(2023年The Soft Power Rankingで米英独に続いて4位)一方で、多文化政策を数値化したランキング(Multicultural Policy Score, 2010年)では21カ国中最下位となっているといった指標からも見て取れる。ただし、付け加えておくべき重要な点として、こうした現代日本のトランスナショナリズムを考察するにあたっては、歴史的な視点が不可欠である。日本とアジアの国境を越えたつながりを考える際には、第二次大戦中の国境を越えた接触がその後どのように記憶され(Witt)、1970年代以降に旧植民地諸国と人々の新たなつながりを模索するに際して反省的に活かされていったのか(Park)といった検証も重要である。また、トランスナショナルな接触が人々にもたらす入り組んだ複雑な心情や思考といった点を理解するには、作家や思想家のトランスナショナルな経験(Houquet; Bürgin)やテキストの翻訳の問題(遠藤)などの考察も欠かせない。
こうして今年度は、これまで以上にバラエティに富んだ幅広い分野の報告があった。トランスナショナリズムの概念やアプローチについては未だ十分に共有されているとは言い難いものの、今回のワークショップを通じて、改めてトランスナショナリズムが移民研究を超えて広く応用可能だということを認識させられた。またもう一つの発見としては、参加者をはじめとしてトランスナショナルな研究を進めている研究者には、トランスナショナルな経験を有する人々が多いということであった。それは、留学やフィールドワークを通じたアカデミックな面でのトランスナショナルな経験に留まらず、幼少期から複数の大陸や国を越えながら生活をしてきた人や、人種やエスニシティを超えた多様な文化的背景を持つ家庭で育った人など、自身の生い立ち自体が豊かなトランスナショナルな要素に溢れた参加者も少なくなかった。言うならば、国民国家を境界を横断しながら育ってきた研究者たちである。彼らは、多言語的なスキルだけでなく、複数のアイデンティティを巧みに使い分けながら異なる他者とコミュニケーションを図る能力にも長けており、「トランスナショナル資本」が豊かな存在だと言える。ただし、こうした人材は、ともすればナショナルな枠組に構造化されている各国のアカデミアの枠からこぼれ落ちてしまう「マイノリティ」にもなり兼ねない。本ワークショップはこうしたトランスナショナルな研究者のつながりを作りつつ、そうした存在が持つ可能性について考える実験場になっているようにも感じられた。
最後になるが、以下のコメンテーターの方々からは、個別の報告や全体討論の際にいくつもの有益な質問やアドヴァイスがあった。
安孫子信氏(法政大学)、星野勉氏(法政大学)、黒田昭信氏(ストラスブール大学)、Josef Kyburz氏(CNSR)、Erich Pauer氏(CEEJA)、鈴村裕輔氏(名城大学)、髙橋希実氏(ストラスブール大学)、横山泰子氏(法政大学)(五十音順)
また、今年度もホスト役としてワークショップ運営にご尽力いただいたアルザス欧州日本研究所のFrédéric Ebrard氏、徳江純子氏にも深く感謝を申し上げたい。
髙田 圭(法政大学国際日本学研究所・准教授)
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