【開催報告】2014年度第2回東アジア文化研究会(2014.5.28)報告記事を掲載しました2014/05/30
「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討−<日本意識>の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「<日本意識>の現在−東アジアから」
2014年度 第2回東アジア文化研究会
昭和維新運動とアジア主義
- 日 時: 2014年5月28日(水)18時30分〜20時30分
- 場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー25階B会議室
- 報 告: 筒井 清忠(帝京大学文学部日本文化学科 教授)
- 司 会: 王敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)
1918(大正7)年に設立された老壮会と翌年設立の猶存社とが昭和維新運動の源流である。老壮会参加者は、満川亀太郎、大川周明、大井憲太郎、高畠素之、堺利彦、権藤成卿らである。中心人物の満川は若い時に社会主義の傾向が強かったが「日本の革命はどうしても錦旗を中心とし たものでなければならぬ」 と考えた人である。アジア解放・人種差別撤廃の運動を生成し、困窮生活者の調査研究・待遇改善活動にも連携していた。満川においてはナショナリズムとアジア主義と社会主義は渾然一体であった。
もう一人の中心人物大川もやはり若い時に社会主義の影響を受けたが、東大宗教学を卒業、ヘンリー・コットン『新インド』を読んでインドの現況を知るにつけその独立運動に挺身を始め、日本におけるインド独立運動・アジア主義運動のリーダーとなりつつあった。
老壮会の活動は活発に続けられたが、性格が曖昧化したので、満川と大川が結成することにしたのが猶存社であった。猶存社の綱領は「革命日本の建設、亜細亜解放運動、各国改造状態の報道批評」などであった。そして、北一輝を迎えるため大川は上海に 赴く。
北一輝 は若くして『国体論及び純正社会主義』 を書きながら発禁となりその後中国革命に挺身、挫折後、上海にいた。北を訪れた大川は、執筆中の『国家改造案原理大綱』を持して帰国、これは1923年に『日本改造法案大綱』の名で公刊された。天皇の名の下にクーデターを起し、全国に戒厳令を敷く。国内施策としては、華族制度等廃止 、治安警察法等廃止 、私有財産制限・国有化 、自作農創設・労働者の待遇改善等が、対外政策としてはアジアの植民地の積極的解放が、謳われていた。
猶存社は1920年、機関誌『雄叫び』を発刊、日の会(東京帝大)、潮の会(早稲田大学)、東光会(五高)など各大学・高校に支部を結成、運動を拡大して行った。日の会は1921年6月、東大で「アタル氏追悼印度問題講演会」を開催、神戸の労働争議を支援するなど「革新的で、インドの革命やアジアの解放につながる民族主義運動」を展開した。
1921年、北の影響を受けた青年朝日平吾による安田財閥当主安田善次郎刺殺事件が起きた。朝日は 「奸富を誅する」ことにより「万民平等の実を挙げる」ことを説いていた。
その後、ワシントン軍縮の軍人受難時代 に西田税ら青年将校の北らへの運動の加盟が始まった。1923年、ヨッフェ来日の際、対露政策をめぐり北と大川・満川が対立、3月猶存社は解散 。1925年、大川は行地社を設立したが、その綱領は「有色民族の解放」「世界の道義的統一」等であった。その後、大川は佐官級に接近、北はいっそう青年将校と近くなった。
さて、大正末期以降満蒙問題が浮上しアジア主義に微妙な変化があったが、彼らの一貫した基調は変わらなかった。満川の立場は“関東州租借が東洋平和を害するなら返還するがそうではない”というものであり、大川は“満蒙は生存のために必要なのではなく東洋平和のための担保。日本の撤退は満州を修羅場と化す”としていた。
北はもともと満州領有論であった。“日本がロシアの脅威から中国を守っている。日中連携してソ連に当たるべきだが、現実には中ソ連携なので満州事変を肯定する。そして米資本による日中提携を模索する”というものであった。
1930年に満川はアジア主義的人材養成のため興亜学塾を設立。大川は1938年満鉄東亜経済調査局付属研究所を設立、アラビア語講師は井筒俊彦、前嶋信次も調査局勤務であり、戦後の日本のオリエント学はここで築かれた。
1930年に参謀本部の橋本欣五郎中佐が桜会を結成するが、そのイデオローグは大川周明であった。大川と桜会は三月事件・十月事件 とクーデター未遂事件を繰り返し、大川は五・一五事件で捕まる。青年将校と近くなった北は二・二六事件に連座、1937年銃殺 される。
昭和維新運動においては、一貫した思想は平等主義であり、国内的「無産者」と国際的「無産者」は同一視され、彼らを抑圧する国内的・国際的「特権階級」は打倒対象であった。具体的には、国内的「弱小隷従階級」と国際的「弱小隷従地域」(アジア)が、国内の「親英米派的重臣・財閥等特権階級」と「植民地支配特権大国」と戦い倒すという図式となる。
従って、昭和維新運動の台頭は国内の「親英米派」の衰退に結びつく。二・二六事件後の1938年、近衛内閣は「東亜新秩序声明」すなわち帝国主義・植民地主義を否定し、アジアとの連帯を強調した声明を発表した。近代日本史上アジア主義がはじめて日本の国策に取り入れられたもので、それもこうした思想の広汎化から出てきたものであった。これは一方で、翌年7月の日米通商航海条約破棄を導き出し日米戦争の一因となるし、その後松岡洋右外相による「大東亜共栄圏」となって“日本盟主的”な重要な変化を遂げる。
こうしてみると、昭和維新運動とアジア主義は常に両義性を内包した存在であったと言えよう。
【記事執筆:筒井 清忠(帝京大学文学部日本文化学科 教授)】
左より:王敏氏(司会者)、中央・筒井清忠氏(報告者)と会場の様子