【開催報告】第5回アルザス・新世代ワークショップ 「日本のトランスナショナリズムと帝国」(2022年11月4日・5日・6日)2023/01/12

開催報告
第5回アルザス・新世代ワークショップ
「日本のトランスナショナリズムと帝国」


■主催:
法政大学国際日本学研究所(HIJAS)
「国際日本研究」コンソーシアム(CGJS)
アルザス欧州日本学研究所(CEEJA)

■会期・開催時間:2022年11月4日(金)~11月6日(日)(3日間)
・2022年11月4日(金)17時00分~23時40分(*日本時間JST)
・2022年11月5日(土)18時00分~23時00分(*日本時間JST)
・2022年11月6日(日)18時00分~23時30分(*日本時間JST)

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「アルザス・新世代ワークショップ」は、法政大学・国際日本学研究所、アルザス欧州日本研究所(CEEJA)、そして「国際日本研究」コンソーシアムの共同開催による国際会議であり、今年で5回目を迎える。主に欧州、日本の「若手(early career)」研究者を公募で募り、基調講演者、コメンテーターとともに数日間にわたって研究報告と議論を行なうインテンシブなワークショップである。今年度は「日本のトランスナショナリズムと帝国」(Japanese Transnationalism and Empire)をテーマに掲げ、11月4日(金)から11月6日(日)にかけてCEEJAを拠点に開催された。過去の2年間はCovid-19によるパンデミックの影響によりオンライン主体であったが、今年度はほとんどの報告者、コメンテーターが欧州各地、日本そして北米からフランス・コルマール市に集まり、3日間にわたって熱心な報告、討議がおこなわれた。

本ワークショップでは、昨年からトランスナショナルな日本(あるいは日本研究)を主題にしてきた。その問題意識の背景には、トランスナショナルな方法論が国民国家それ自体の特徴とそこに住む人々を研究対象とする(日本研究を含めた)エリア・スタディーズにとって、そのアイデンティティを根底から突き崩しかねない極めてクリティカルなアプローチなのではないかという考えがあった。そこで欧州、米国の日本研究者にトランスナショナリズムの概念や方法論についての基調講演を依頼し、公募報告者からはトランスナショナルな視点から日本を分析した多くの興味深い実証研究が報告された。こうした昨年のワークショップでは、トランスナショナルなアプローチを採用することでナショナルな視点からは見えてこない日本の新たな姿が浮かび上がってきた(▶詳細については昨年の報告文を参照)。

このテーマは、いわゆるグローバル・ターン以降の日本研究あり方そのものを問い直す極めて大きな課題であり、継続して議論していく必要性が感じられた。そこで、今年は昨年の大枠を引き継ぎつつ、十分に議論し尽くせなかった課題を深化させるとともに、もう一つ要素を加えるかたちで実施することが構想された。その変数とは、トランスナショナルな実践につきまとう権力の問題であり、特にマクロな権力構造の要素である。そして、それを表す一つの概念として「帝国」が導き出された。その理由は、まず「帝国」概念は長い歴史的スパンを含み、そのため広いテーマの応募が期待されること。そして「帝国」それ自体が国境を越えて拡大する権力であると同時に「帝国」を突き崩すような抵抗も国境を越えて展開されるという(広い意味での)トランスナショナリズムの両義性を抱える現象と言える。それは即ち、トランスナショナリズムが力の重要な源泉の一つであることも指し示している。

「日本のトランスナショナリズムと帝国」というテーマに沿った報告者として、2名の基調講演者、公募を通じて選ばれた8名の「若手研究者」を迎えた(プログラム)。1日目(司会:髙田圭・法政大学)は、Japanese Empire and Transnational Thoughts(日本の帝国とトランスナショナルな思想)と題して2名の公募報告者の発表の後、午後には3時間にわたって基調報告と報告をめぐるディスカッションをおこなった。2日目(司会:レギーネ・マティアス・CEEJA)には、Japanese Empire and European Empires(日本帝国とヨーロッパの帝国たち)というセッション・タイトルのもと主に日本と欧州の帝国のつながりや対比をめぐる4本の研究報告がなされた。最終日のセッションはJapan and Pax-Americana(日本とパクス・アメリカーナ)とし(司会:坪井秀人・早稲田大学)日本とアメリカ帝国との関係を探る2本の報告の後、2時間以上にわたってワークショップを振り返る全体討論がおこなわれた。基調講演者は、昨年に引き続き米国・コーネル大学の酒井直樹氏を迎え、更にフランス国立東洋言語文化学院(INALCO)からミカエル・リュケン氏を招聘した。

公募報告者からは、トランスナショナルあるいは(また同時に)帝国をキィワードに多くの興味深い発表がなされた(報告要旨)。Tomoki Sakata氏(バンベルク大学)による発表” “Consequential Application of Watsuji’s Ethics of Ningen to Transnational Relations”は公募報告の中で唯一の哲学・理論的な報告であった。和辻哲郎の思想においてトランスナショナリズム(世界国家)がどのように位置づけられるかという問題を提起し、和辻が唱える人と人との間としての人間学の射程を世界国家まで広げることは可能だとしても、そこでの和辻哲学の「人間」観は、空虚なものになってしまうだろうと結論づけた。その他の報告は、政治、文化、芸術などの側面に目を向けた歴史的な実証研究であった。最も古い時代の順から言えば、まずヨーロッパの近代初期、日本の近世におけるギャンブル成立の文化史、そして日本帝国から植民地朝鮮を含めた各地への花札の国境を越えた伝播などについて分析したPaola Mascio氏(法政大学)の報告があった。自由民権運動の時期に生じた「transimperial(帝国を越えた)」なテロ活動に着目したのはAmin Ghadimi氏(大阪大学)の報告である。ガデミ氏は婦人解放運動活動家の先駆けとして知られる福田英子に着目し、ロシアの革命思想に影響を受けつつ構想された朝鮮半島での国境を超えたテロ計画に追った。比較の視点からイタリアと日本の帝国主義を分析したのはNikolaos Mavropoulos氏(ハンザ・ヴィッセンシャフトカレッジ高等研究院)の発表であった。両国を「遅れた帝国主義」と位置づけ、イデオロギーや植民地支配地域の違いはあるものの、経済的行進性、軍事的脆弱性、人口過剰の問題等の共通性から両者の帝国は極めて高い類似性を持つものだったと主張した。こうしたマルクス主義的歴史社会学からの日本帝国主義分析に対して、Anna Shimomura氏(大阪大学)は文学作品の分析から日本帝国の特徴に迫った。本報告では、西洋帝国主義批判をいち早く展開した作家ジョゼフ・コンラッドの日本の文学者へのトランスナショナルな影響を分析し、大佛次郎の作品を通じて日本の帝国主義のアンビバレンスを捉えることを試みた。日本帝国による植民地でのプロパガンダを対象にしたのはJasmin Rückert氏(デュッセルドルフ大学)の報告であった。本報告では『満州グラフ』と『北支』という植民地満州で発刊されていた写真入り雑誌を分析し、そこに描かれる日本人、中国人労働者、原住民の姿から日本帝国が打ち出した「多様性」のイメージを分析した。Jana Aresin氏(ニュルンベルグ大学)の報告も同様に雑誌を対象したが、戦後、特に米国占領下における女性の表象を扱った。『婦人之友』など当時の婦人誌を資料に中で日本の女性たちが新たな民主主義国家を建設するために特別な役割を担う存在として描かれていったことを明らかにした。日本人画家の軌跡を通じて複数の帝国またぐトランスナショナル重層性に着目したのはKimihiko Nakamura氏(ハイデルブルグ大学)の報告であった。岡田謙三と川端実という植民地満州、東南アジアで戦争画家として活動し、戦後に米国へ渡って高い評価を得た2人の画家を対象に複数の帝国間の越境が作品へ与えた影響や、彼らの軌跡から浮かび上がる世界における日本(人)のポジションの変化を捉えた。

こうした多様な報告からは、改めてトランスナショナルは、哲学、政治史、文化史、文学研究、美術研究など幅広いテーマを扱うことのできる包括的なアプローチだと感じられた。ただし、それと同時にトランスナショナルと一言でいっても、扱う時期(近代か前近代か等)や対象(人、情報、イメージ、作品等々)によってこの言葉の意味するものが異なる。実際、後に述べるように、こうしたトランスナショナリズムの理論的・方法論的な可能性と問題点は、ディスカッションの際の大きなポイントとなった。他方、帝国の変数を差し込むことによって、権力による国境を越えた移動の管理と表象(Rückert)や帝国へ抗するトランスナショナリズムの実践(Ghadimi)、また帝国の盛衰に翻弄されながらも逞しく国境を移動しながら生きる人々の姿(Nakamura)などが浮かび上がってきた。

今年度のワークショップのもう一つの狙いは、基調講演を通じてワークショップ・テーマ、そして昨年に引き続き、異なる国・地域の日本研究のあり方について広く学ぶことであった。酒井直樹氏には昨年”Internationality and Transnationality: Translation and Area Studies”というワークショップのキィワードをめぐる刺激的な講演を行なっていただいたが、今年は、2022年1月に発行された著書The End of Pax Americana: The Loss of Empire and Hikikomori Nationalism(Duke University Press)についての講演を依頼した。本書は、酒井氏がこの20年間ほどの間に執筆したエッセイや講演原稿を一冊にまとめたもので、日本語版『ひきこもりの国民主義』が2017年に岩波書店から出版されている。講演では、書籍の大枠の構成と狙いについて語っていただいたが、本書は主に4つのトピックについて書かれたものと説明された。それらは「旧宗主国に住む人々にとっての植民地主義の問題」「パクス・アメリカーナと地域研究」「国際世界(international world)の空間的構造」そして「知識生産の脱植民地化」の問題であった。酒井氏は「本書を通してまとまった一本の物語を提示するのは難しい」と述べたが、書籍を読み、講演をうかがうと、ポスト植民地主義の状況、そしてパクス・アメリカーナという戦後秩序が揺らいでいる今日の状況の中でこれまで支配的であった「西洋と残余(the West and the Rest)」といった知の枠組みがどのように崩れ、または再編され、その変容に人々がどのような反応をしているのか(タイトルにあるhikikomori意識はその一例)を多角的に分析したアクチュアルで刺激的(provocative)な書籍だと感じた。

もう1人の基調講演者ミカエル・リュケン氏には、2017年出版のThe Japanese and the War: Expectation, Perception, and the Shaping of Memory (Columbia UP)について報告いただいた。本書は2013年にフランスで出版されたLes Japonais et la guerre: 1937-1952の英語版で第二次大戦における日本帝国の経験について戦前・戦中の経験からパクス・アメリカーナの秩序に取り込まれていく戦後にかけて扱った現代史の著作である。書物の内容とワークショップの報告からは本書の二つの狙いが読み取れた。第一に、その主題が端的に示す通り、日本の戦争経験についてまとめ、そして特にそれをフランスの読者に伝える目的である。日本を敗戦に追いやり、占領をした米国、敗戦から戦後復興にかけて日本と似た軌跡を辿ったドイツ、また日本の植民地を経験したアジア諸国と異なり、日本の第二次大戦との関係が相対的に希薄なフランスでは日本の戦争に対する関心は必ずしも高くなく、包括的な著作もほとんどなかったという。しかしながら、本書は単なる日本の戦争史の紹介にとどまらず、リュケン氏の独自の視点から日本の戦争経験についての新たな光を当てる試みとなっている。日中戦争開始の1937年から敗戦の1945年までを扱う一般的な第二次大戦の物語に対して、本書は日本が太平洋戦線でコントロールを失った1943年からSCAPによる占領が終了する1952年までの時期を対象にするなど独自の視点を採用し、美術史家ならではの多くの写真やポスターなどのイメージを使いながら日本人の戦争への眼差しや記憶を描いている。実際に、基調講演の中でも強調されたのは、単一の歴史物語への忌避であった。リュケン氏は、構築された支配的な歴史や記憶を絶えずずらしながら複数の歴史を描いていくことの重要性を訴えた。

リュケン氏のこうした方法論は、日米の研究者による日本の第二次大戦の物語に慣れ親しんだ人々にとっては新鮮に映るものだ。日本、米国を中心とした戦中・戦後史を学びながらもそこで作られた支配的な物語をずらしていく方法論は、むしろこの分野ではマージナルなフランスという国に拠点を置くからこそのユニークな介入だと感じられた。酒井氏の著作についてもご本人がワークショップでも語っていたように、日本語ネイティブとして米国に長年拠点を置き、アジア、ヨーロッパの人々と対話をしながら形成してきたトランスナショナルな思想が色濃く反映している。二つの著作は必ずしも直接的にトランスショナルな現象を扱うものではない。しかしながら、講演からはそれぞれのトランスナショナルな経験と想像力がオリジナリティの源泉になっていることが伝わってきた。

初日、最終日に設けられたラウンドテーブル・セッションで議論された議題は多岐にわたる。例えば、西洋中心主義の問題、帝国の衰退の問題、各国の日本研究のアプローチの違い等々。その中でとりわけ大きな議論となったのは、昨年からワークショップのキィ概念となっているトランスナショナルあるいはトランスナショナリズムの解釈についてであった。トランスナショナリズムは論争的な概念であり、公募報告の多様性から見ても分かるとおり、分野や論者によっても定義、着目する点が異なる。またこの言葉の普及度や親和性はナショナルな知的空間の間に断絶がある(例えばある国の人文社会科学ではよく使われるが、他の国ではあまり馴染みがない)。最終日のディスカッションの場でも忌憚のない意見が飛び交ったが、それは大まかに二つの異なる解釈を巡るものだったと言える。それは一つにトランスナショナリズムを規範的、あるいは政治的なプロジェクトとして意味づける視座。もう一つは、様々な過去・現在の事象を国境を越える視点から捉えようとする方法論の問題である。当然、人文社会科学において両者は密接に絡んでおり明白に分けることはできないが、前者を規範概念、後者を分析概念と捉えられるだろう。

前者の視点は、トランスナショナリズムの思想に国同士の明確な境界を前提とする国民国家を乗り越える可能性を見出すものである。そうした国民国家批判のパースペクティブからトランスナショナリズムの概念を採用することは、逆説的に、国家が持つ暴力性、ナショナリズムが持つ閉鎖性といった近代国民国家が自ずと抱える問題性を暴露することにもつながる。このような規範概念としてのトランスナショナリズムの議論は、哲学、思想を専門とする参加者によって出された。他方、分析概念としてのトランスナショナリズムは、歴史学等の実証主義的な研究者が依拠する視座と言える。近代の人文社会科学は方法論的ナショナリズムと言われるように国民国家の枠組みを前提にアプローチを発展させてきた。そのため実際には歴史上多くの国境を越える実践が世界を作り出してきたにも関わらず、それらはこれまでの研究の枠組みからはおおよそ排除されてきた。分析概念としてのトランスナショナリズムは、そうした人文社会科学の盲点に着目することで世界の新たな姿を捉え、描くことを可能にするアプローチとして考えられる。

もとより規範概念であれ分析概念であれ、それぞれの問題を抱えており、今後より理論の洗練化が求められる。ただし、両者の視座に共通して言えるのは、規範概念、分析概念いずれにおいてもトランスナショナルが前提とするのはナショナルなものであり、ナショナルとの関係おいてこそトランスナショナリズムの視座の有意性が浮かび上がってくるということである。その意味でも、今回のワークショップは、ナショナルな枠組みに深く埋め込まれたエリア・スタディーズ、日本研究との関係からトランスナショナリズムを考えていくという昨年の問題意識の重要性を改めて確認する機会となった。

こうしたように今年度のワークショップでは、多くの魅力的な報告とともに、今後の課題を含めて活発な議論が展開された。過去の2回と比べてみると、今回の成果は対面での開催が可能になったことが大きく、同様の意見は、CEEJAのレギーネ・マティアス氏をはじめ数々の参加者からも聞こえてきた。またそれはワークショップの「表舞台(front stage)」だけでなく、食事や休憩時間などの「裏舞台(back stage)」の役割も大きい。比較的小規模な国際ワークショップの機能は、各人の報告と質疑応答に終わらず、バックステージでの交流を通じてそれぞれの国や地域の学問の潮流や文化の違いなどを感じ取り、未来に向けたネットワークを育むことにある。今回のワークショップではいくつものつながりの萌芽が生まれたように感じられた。

【記事執筆】髙田 圭(法政大学国際日本学研究所専任所員)

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