【開催報告】アプローチ(4)2014年度第1回勉強会(2014.9.25)報告記事を掲載しました2014/09/30

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(4)「〈日本意識〉の三角測量−未来へ」
2014年度 第1回勉強会

黒沢清監督作品『トウキョウソナタ』の魅力—ハイブリダイゼーション(交雑)とモデュレーション(転調)—


 

日  時 2014年9月25日(木)18:30〜20:30

会  場 法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

講  師 クレリア・ゼルニック(パリ国立高等美術学校教授)

通  訳 岡村 民夫(法政大学国際文化学部国際文化学科 教授)

司  会  安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所員・文学部教授)

 

今回の勉強会は、パリ国立美術学校教授のクレリア・ゼルニック氏を迎え、「黒沢清監督作品『トウキョウソナタ』の魅力—ハイブリダイゼーション(交雑)とモデュレーション(転調)—」と題して行われた。報告と質疑応答はフランス語で行われ、司会はHIJAS所員で法政大学文学部の安孫子信教授、通訳は法政大学国際文化学部の岡村民夫教授が務めた。
ゼルニック氏は2009年にメルロ=ポンティの美学を主題とする論文を提出してパリ第4大学パリ・ソルボンヌから博士号を授与され気鋭の美学者である。近年では美学の諸理論を応用した映画の分析にも取り組んでおり、その成果はPerception-cinema: Les enjeux stylistiques d’un dispositif (Vrin, 2010)、L’oeil et l’objectif: La psychologie de la perception a l’epreuve du style cinematographique (Vrin, 2012)、Les sept samourais de akira kurosawa (Yellow Now, 2013)として上梓されている。
報告の概要は以下の通りである。

黒沢清の映画『トウキョウソナタ』(2008年)は、黒沢明の『生きる』(1952年)の焼き直しといえる。すなわち、『生きる』において、主人公である初老の男性はがんに侵され余命いくばくもない自らの境遇を直視し、「正しく生きることのみが人に生きる価値を与える」という考えに至る一方、主人公が勤務先を突然解雇されることで幕を開ける『トウキョウソナタ』は「いかに生きるか」、「いかに生き直すか」が主題となっているの。フランスの哲学者フレデリック・ヴォルムスの“revivre”(再び生きる、生き直す)という概念に基づけば、解雇という転落は主人公とその家族が「再生」するための伏線となっており、「生き直す」ということが『トウキョウソナタ』の重要なカギとなっているのである。そこで、ヴォルムスが提示する「再び生きる」ための5つの要素(忘却、トラウマ、革命、回帰、優美)を手掛かりに、『トウキョウソナタ』を検討してみよう。
「再び生きる」ことが求められるのは、断絶、「何かが壊れる」ということを経験するためである。この時、人はあたかも何も変わらなかったように行動することで自分に生じた変化を隠すとともに、過去を保持することで衝撃を緩和しようとする。『トウキョウソナタ』においては、主人公の竜平(香川照之)の高校の同級生でやはり失業中の黒須(津田寛治)が失業していることを妻に隠すために10分ごとに携帯電話が鳴るよう設定し、あたかも何もなかったかのように振る舞うことがヴォルムスの「忘却」に相当する。このように、「忘却」は「再び生きる」ことを可能にするかのように見えるものの、ヴォルムスは(1)偽りの人生を生きる、(2)自発的ではなく、訓練し、機械化された振る舞いに頼る、(3)生きる力を奪う行為としての純粋な否定、という3つの点で不都合を有していると指摘する。『トウキョウソナタ』の場合では、周到に環境を整えることで何事もなかったかのように振る舞い続けていた黒須が、妻に失業が露顕したことで自殺に追い込まれたことが、ヴォルムスのいう「忘却の3つの不都合」に合致する。ここから、われわれは、「再び生きる」ためには、偽りの人生を生きるための機械化された方法とは異なる手段が必要であることが分かる。

第二の要素である「トラウマ」は、「過去の破綻への強迫的な回帰」を意味する。ヴォルムスはトラウマを「暴力的だが外部にあって自分に侵入するもの」とし、「伝染するもの」とする。『トウキョウソナタ』では、竜平の失業によってそれまで平穏であった家族がそれぞれ言い訳をするようになり、互いの関係がぎこちなくなる。これは、竜平が解雇という自分の外からやって来た暴力的な力によって生活の均衡を失ったことが周囲に伝染した結果である。映画の冒頭の開いたままの窓から風と雨が室内へと入り込む描写は、まさにトラウマの次元での「再び生きる」ことが侵入的であることを象徴しているといえる。

このようなトラウマに続いて起こるのが、過去を完全に断ち切る「革命」である。過去と完全に断絶することになる革命を経験することは「ゼロから出発する」ということにつながり、「革命」が成功すれば「再び生きる」ことが可能になるように思われる。しかし、ヴォルムスが革命的に生きることの不可能性や再び生きることの難しさを指摘したことは、「ゼロから出発する」という誘惑が夢であることを意味している。『トウキョウソナタ』においても、大金を見つけた竜平、強盗(役所広司)に誘拐された妻の恵(小泉今日子)などがそれぞれに新しい人生を夢見るもののいずれも実現しないことで、「完全な革命」という夢が失敗に終わることが示されている。

「回帰」という「再び生きる」ための第四の要素は、「完全な革命」といった幻想ではなく、現実に「再び生きる」こと、すなわち非日常的な革命から日常性へと立ち戻ることを意味する。「回帰」の段階において「再び生きる」ことは破壊された糸を織り直すことであり、ヴォルムスは「再び生きることは敵対する力と戦った結果、今、ここを生きることを約束することである」、あるいは「偽りの「再び生きる」は崇高な人生を約束するが、真の「再び生きる」とは、生きることそのものを約束する」と述べる。家出から帰ってきた二男の健二(井之脇海)、強盗から逃れた恵、交通事故から戻った竜平が、それぞれの非日常的な体験を語り合うのではなく、食卓を囲んで黙々と朝食をとる場面は、「真の「再び生きる」ことの具体的な行動として「食べる、飲む、愛する、読む」などの行為を挙げ、「人が再び生きるのは朝である」とするヴォルムスの考えを映像によって表現しており、まさに崇高なものはないが、自分の人生を積極的に肯定する「再び生きる」ことを象徴的に描いているといえるだろう。

最後に残された要素の「優美」は、『トウキョウソナタ』の最後の場面に見出すことができる。すなわち、音楽大学の付属中学校を受験する健二がドビュッシーの「月の光」を演奏する場面において、審査員や観客が健二の奏でる美しい旋律に心を奪われる中で、窓からは柔らかい日の光と風が室内に吹き込んでいる。これは、「再び生きる」ことの難しさを暗示するとともに、そのような「再び生きる」ことが慣れ親しんだものと驚くべきものとの混交、平凡なものと優美さとの混交であることを示唆している。ここには、ある情景から別な情景へとしなやかに移行する黒沢清の感性が働いており、機械的な反復の対極にある可塑性が「再び生きる」ために重要な要素であることをも示している。

このように見るとき、われわれは、『トウキョウソナタ』が柔軟性と好奇心を内に含む映画であることを理解する。しかし、このような柔軟性と好奇心の同居は、「日本的な映画を作る」といわれた小津安二郎がアメリカ喜劇の手法を参照し、日本の伝統劇能を作品に取り入れた黒沢明がゴッホの絵画に傾倒していたことが示すように、日本映画の特徴であるといえるだろう。また、ヴォルムスの「再び生きる」という概念と議論が映画の分析に有効であることも、『トウキョウソナタ』の事例を通してわれわれが明らかにしたことである。

しばしば「平凡な家族が絆を取り戻す物語」と理解される『トウキョウソナタ』をフレデリック・ヴォルムスの「再び生きる」という概念によって分析することで、物語の構造を明らかにするとともに新しい意味を与えたゼルニック氏の発表は、一面において映画の哲学的解釈であるともに、日本の平凡な家庭を題材とする映画の持つ一種の普遍的な側面を描き出した。こうした報告は、国際日本学の方法論をより豊かなものとする、意義深い試みであると考えられた。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】

左から:岡村民夫氏(通訳者)
左から:クレリア・ゼルニック氏(講演者)

左から:安孫子信氏(司会者)
左から:岡村民夫氏(通訳者)
左から:クレリア・ゼルニック氏(講演者)

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