第9回東アジア文化研究会 『法政速成科のメタヒストリー−梅謙次郎・汪兆銘・周恩来−』(2014.1.22)
「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討-〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在-東アジアから」
2013年度 第9回東アジア文化研究会
法政速成科のメタヒストリー
-梅謙次郎・汪兆銘・周恩来-
- 日 時: 2014年1月22日(水)18時30分~20時30分
- 場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階国際日本学研究所セミナー室
- 報 告: 古俣 達郎(法政大学史センター専門嘱託)
- 司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)
法政大学清国留学生法政速成科(以下、法政速成科)とは、明治後期に法政大学が清国からの留学生に短期速成の法学教育を施すために設立した学科である。法政速成科は、当時の法政大学総理梅謙次郎の指導の下、1904年に開設され、第一班から第五班(1908年4月卒業)まで計1256名の卒業生を送り出し、帰国後、卒業生の多くは、法律、政治、教育など様々な分野で活躍したことで知られている。2011年には、辛亥革命100周年を迎えたこともあり、近年、法政速成科への関心は高まりつつあるが、本報告でこれまでの法政速成科の言説を辿ることによって、「法政速成科」像の変遷や法政速成科研究の進展状況を明らかにした。
1.戦前の言説(「法政スピル運動」、日中戦争下の言説を中心に)
法政速成科はその廃止(1908年)後、一時的に忘れられていたが、1920年代末に法政大学内でおこった「法政スピル運動」において、梅謙次郎が「法政スピル」(法政精神)のシンボルとして顕彰される中、梅の業績を紹介する一エピソードとして、法政速成科に関する言説がみられるようになった。その後、日中戦争が勃発し、法政速成科の卒業生である汪兆銘が親日政権を樹立することで、法政速成科は大学内で非常に注目を浴びることになった。この時期の法政速成科に関する言説は、汪兆銘や彼に追随する人々のみを中心として論じており、法政速成科及び汪兆銘は時局に迎合する当時の大学当局によって宣伝材料として利用された(例えば、大川周明を迎えて設立された「大陸部」の設立趣意書などに法政速成科は言及されている)。
2.戦後の言説(「法政大学中国研究会」、周恩来在学説等)
一方、戦後においては、経済学者の宇佐美誠次郎を中心として設立された「法政大学中国研究会」の調査によって、沈鈞儒など中華人民共和国の要人が法政速成科の卒業生として発見され、戦前の汪兆銘一色の「法政速成科像」を塗り替えていった。1950年代後半には、法政大学の中心的な教員や学生が次々に訪中していたこともあり、法政速成科は日中文化交流の歴史的シンボルとして捉えられていった。また、1961年には、法政大学初の本格的な通史として『法政大学八十年史』が刊行され、法政速成科は法政大学史上の位置づけを与えられることになった。しかしながら、この時期の言説の問題点として、この当時、法政速成科もしくは法政大学の卒業生・在籍者とされた人々の中には、卒業及び在籍が確認されていない人物が多数含まれていたことは注意しなければならない。例えば、周恩来総理の法政大学在学説なども当時流布したが、今日までそれを裏付ける資料は見つかっていない。
3.『法政大学資料集 第十一集』刊行以降の展開(「無名」の人々への注目)
1988年には、法政速成科に関する一次資料を集成した『法政大学史資料集 第十一集』が刊行された。同資料集の刊行によって、学内外の研究者に、法政速成科は「研究」の対象と見なされるようになった。これらの研究は多様ではあるが、注目すべき点として、これまでの言説が主として汪兆銘や陳天華(例えば、『法政大学百年史』は陳天華を中心として法政速成科を描いている)といった著名な政治家・思想家を中心とした「法政速成科像」を描きがちであったのに対して、「無名」の人々や「地道」な活動によって中国の近代化に尽力した人々に焦点をあてていることが挙げられる。
こうして、梅の業績の一エピソードとして出発した法政速成科の言説は、戦時下の汪兆銘、戦後の陳天華らを中心とした「法政速成科像」を経て、ついにはその背後に存在していた数多の「無名」の人々による「地道」な活動をも視野に入れるに至ったのである。
4.法政速成科研究への諸提案
最後に、以上の分析を踏まえた上で、報告者なりの法政速成科研究に関する提案として、以下の三点を挙げた。
①特定の人物を法政速成科の「代表」として論じることの問題点(むしろ汪兆銘も陳天華も、そして沈鈞儒も共に学んでいた「空間」として考えるべきはないだろか。彼らのその後の進路の差異があるのならば、それは如何にして生じたか。法政速成科はもちろん、彼らの日本経験等において何らかの差異があったのか、といった問いの必要性)
②他大学との比較、共同調査の必要性(早稲田大学清国留学生部、明治大学経緯学堂等。法政速成科に語る際には、どうしても、ある種の「法政ナショナリズム」を伴いがちであるが、そもそも当時の中国人留学生たちは、中国同盟会など個々の在籍する学校を超えて活動していたのであって、この点を無視しては、彼らの実態は見えてこないであろう。彼らの日本経験において、在籍校という偏差がどのように作用していたか、もしくはいなかったのか)
③中国との「学術交流」の促進(1950年代には「文化交流」が唱えられたが、「学術交流」もなされなければならない。特に在籍者の確認などは中国からの情報がなにより重要であり、日中の研究者間で交流がなされることによって、法政速成科に関する理論的な深化や新たなパースペクティブが開かれることも期待される)
【記事執筆:古俣 達郎(法政大学史センター専門嘱託)】
左より:王敏氏(司会者)、古俣達郎氏(報告者) |
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