第2回みちのくワークショップ(2013.1.18)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」

第2回みちのくワークショップ
東北文学と日本意識(古代・中世篇)


報 告
 小秋元 段 (法政大学文学部教授)
小口 雅史 (法政大学文学部教授)

司 会  田中 優子 (法政大学社会学部教授)

日 時  2013年1月18日(金) 14:00 – 17:00

会 場  法政大学九段校舎5階 第二会議室

小秋元 段 教授   小口 雅史 教授

           小秋元 段 教授                小口 雅史 教授

1.「中世後期の文芸とみちのく」  報告者 小秋元 段

室町時代を中心に制作された短編物語であるお伽草子は、市古貞次氏『中世小説の研究』(東京大学出版会、1955年)にしたがい、通常、六種類に分類される。そのなかの武家物には「お家騒動物」「復讐譚」と呼ばれる一群があって、類似した物語展開をもつ複数の作品が存在する。地方の有力者である主人公が美しい妻を迎え、やがてその妻が国司や在地の別の有力者に横恋慕される。主人公は横恋慕した男と合戦して敗れるか、讒言にあうかして、回国修行をするか、流罪にあって苦難の旅に出る。それに応じて妻も夫を追って苦難の旅を経験し、やがて夫妻は再会して、帝の許しを得て本来の地位を回復するという筋立てである。『師門物語』『明石物語』『村松物語』『堀江物語』『はもち』などがその代表といえよう。
これらの作品は物語展開が似るだけでなく、細部のモチーフにも共通点をもつ。その一つとして注目したいのが、多くの作品で主人公とその妻が苦難の旅をする先が陸奥だということである。『明石物語』と『はもち』では主人公が陸奥に流され、妻がこれを追い、『村松物語』では人買いによって妻が陸奥に売られ、主人公がこれを探しだすという内容をもっている。だが、これらの作品は詳細な道行き文をもちつつも、陸奥の地理についてほとんど触れることはない。つまり、作者は陸奥に深い知識をもっていたわけではなく、「意匠」として陸奥を用いることを重視したらしいのだ。
幸若舞曲「信田」にも同様の展開が認められる。これらの作品では、主人公とその妻が陸奥で苦難を経験するとともに、全国的な流浪も経験する話がセットになっている。そして、全国的な流浪という点に注目すれば、説経がこの要素を不可欠のものとしていることもあげなくてはならない。全国的な放浪と陸奥への流離は、室町後期の文学・芸能における流行のモチーフであったと見て間違いなかろう。その際、主人公の復活が、『師門物語』では善光寺、説経の諸作品では天王寺や熊野といった聖地でなされるのに対し、『明石物語』『村松物語』『はもち』「信田」では陸奥でなされていることに注意したい。すなわち、後者の作品群において陸奥が聖地と同様の扱いを受けていることは、興味深い現象といえるのではなかろうか。

2.「古代のみちのくと蝦夷( エミシ・エゾ)」   報告者 小口 雅史

本報告では「みちのく」の住民であった「蝦夷」と中央から呼ばれた人々について、その呼称の由来・変遷と、その意味するところ、あるいは歴史的意義などについて、従来の研究史をもとに再整理してみた。
当初「エミシ」と呼ばれた北方( 当時の方位観念では東方)世界の人々は、漢字では中国古典などに基づき「毛人」と表記されていた。八世紀から九世紀初めにかけて、「エミシ」は人名に盛んに使用されたが、それは東方の勇猛な人を意味する語句としてよく知られていたからである。
やがて「エミシ」を表す漢字は「蝦?」に変化する。「蝦」は髭の長いエビのことで、「?」は山に棲む虫や鳥をあらわす語である。斉明天皇5年の遣唐使は、エミシを帯同して、唐の皇帝に披露したが、その時の問答によれば、エミシは深山の木の根本に住むという。蝦という用字はその風貌や風俗をよく示す語として日本で創作された可能性が高い。
しかし白村江の敗戦後、急速なナショナリズムの高まりのなかで、新たに「蝦夷」表記が創作される。「夷」は中国の中華思想に基づく東方の野蛮人を指す語であり、同時に北方の未開民族を指す語である「狄」を用いた「蝦狄」という表記も創作された。このころから「蝦」に引き摺られる形で「エビス」という音が生じたらしい。
やがて11 世紀になると、用字は「蝦夷」のまま、音が「エゾ」と変化する。その初見は、応徳三年「前陸奥守源頼俊款状」中の「衣曾別嶋」であるが、広く知られるようになるのは1 2 世紀になって、歌枕として盛んに読まれるようになってからである。このころには本州最北までが郡郷制に編成され、津軽海峡の北にある夷嶋は、異民族(アイヌ) の住む地として明確に意識されていた。エゾは情緒のないものの代名詞として使用され、そこには強い異民族観が込められていた。
こうした異民族観が、中世北方世界の支配者として歴史に姿を現す津軽安藤氏にそのまま引き継がれた。津軽安藤氏が鎌倉幕府の蝦夷管領( 蝦夷沙汰) を担当できたことの背後には、蝦夷系譜に連なるというその強烈な自己認識があったのである。
ところで以上のように、「蝦夷」表記は、いわば作られた差別として意識的に中央で創作されたものであって、実態とは何ら関係がないことについても留意する必要がある。

司会: 田中優子 教授

田中 優子 教授

会場の様子

会場の様子

【記事執筆:小秋元段(法政大学文学部教授),小口雅史(法政大学文学部教授)】