第6回東アジア文化研究会『「日中国交正常化40年」を超えて』(2012.9.26)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在−東アジアから」
2012年度 第6回東アジア文化研究会

「日中国交正常化40年」を超えて
−石橋湛山の対中国交正常化への取り組み−


  • 日 時: 2012年9月26日(水)18時30分〜20時30分
  • 場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
  • 講 師: 鈴村 裕輔 (法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)
  • 司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)
鈴村 裕輔 氏

鈴村 裕輔 氏

司会:王 敏 教授

司会:王 敏 教授

去る2012年9月26日(水)、18時30分から20時30分にかけて、法政大学国際日本学研究所セミナー室において、「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」アプローチ(3)「<日本意識>の現在—東アジアから」の2012年度第6回東アジア文化研究会が開催された。今回、「「日中国交正常化40年」を超えて——石橋湛山の対中国交正常化への取り組み」と題して報告を行った。報告の概要は以下の通りである。

1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」、いわゆる日中共同声明が出され、日本と中国の国交が回復した。確かに、日中国交正常化は、1971年に米国のリチャード・ニクソン大統領による「電撃的」と評された中国訪問を直接の契機とする。しかし、外交における「ニクソン・ショック」を受けてただちに日中国交正常化が実現したわけではなく、それ以前から日本と中国の関係の改善を目指す様々な取り組みがなされていた。今回の報告では、日中の国交正常化に取り組んだ一人である石橋湛山(1884-1973)の事績を確認、検討した。
日本と中国の関係は、1949年に民間貿易が再開して以来、四次にわたる日中民間貿易協定の調印などを経て、漸進的な改善を示した。その過程の中で、1954年12月に発足した鳩山一郎内閣は「日米協調関係の維持」と「中ソ国との関係改善を積極的に推進」という外交上の基本方針を打ち出した。鳩山内閣の通産相であった石橋は、日本の産業の振興のために日中貿易の活用を企図していた。そして、1956年に自らを首班とする新内閣が発足すると、「安保条約の改定は日本が自衛態勢を確立すると言う義務を果たせるようになってから取り上げるべき」とし、「中国との国交回復はきわめて難しく、当面の課題にはならないだろう」と日米・日中の関係の改善の限界を自覚しながら、「アメリカと提携するが向米一辺倒にはならない」、「今後も中国との経済的関係を深めていく」という「自主外交の推進」を標榜した。石橋の登場は、中国側に日中関係の改善を期待させ、米国側に不安を抱かせるものであった。しかしながら、石橋の健康状態の悪化により、内閣は1957年2月に総辞職したため、石橋が掲げた外交方針が実現されることはなかった。
一方、石橋の後継として組閣した岸信介は、鳩山、石橋内閣で冷却化した日米関係の改善と日米安全保障条約の改定を外交上の最優先課題とし、対中政策としては「政経分離」と「中国情勢の静観」を基本とした。日中関係に進展が見られないことを懸念した石橋は、1959年9月に私人として中国を訪問し、9月20日には周恩来との間で「石橋・周共同声明」を調印した。共同声明は中国側の主張する政経不可分の原則が明記されていたため、日本政府や与党自民党の中で問題視された。だが、声明には、「日中の協同」、「経済、政治、文化の交流の促進」、「日中両国が他国と結んでいる従来の関係の維持」という「石橋三原則」が反映されており、日本の立場を中国に認めさせたという点で、石橋の訪中は実質的には成功であった。
1960年7月に岸信介に代わって池田勇人が組閣すると、池田は岸内閣の対中政策の見直しと日中断交からの回復を志向した。実際、1962年には元通産相の高碕達之助が訪中し、中国人民外交学会副主席の廖承志との間で「日中総合貿易に関する覚書」を調印し、1972年の日中国交正常化まで続く半官半民の覚書に基づく貿易、いわゆるLT貿易が始まるなど、日中関係は再び改善の兆しを見せるようになった。そして、1963年9月、日本工業展覧会総裁であった石橋は、北京で行われる展覧会のために二度目の中国訪問を行った。石橋は再度周恩来と会談し、周は「中国側も国交回復に前向きである」、「当時国際問題化していた中ソの対立は両国の関係に決定的な影響を与えない」、「池田内閣の対中政策が好ましく、日中友好を促進したい」と発言した。また、周は石橋が提唱する「日中米ソ四国同盟」構想についても賛意を示すなど、日中関係の改善に向けた前向きな姿勢を示し、会談は一定の成果を挙げた。
しかし、中ソが国交断絶の状態になり、米国がベトナム戦争に介入したことで米中関係も悪化するとともに、1966年に文化大革命が始まったことで中国国内の情勢が混乱し、1964年に発足した佐藤栄作内閣が親米・親台路線に転換したこともあり、石橋の「日中米ソ平和同盟」構想は頓挫し、日中国交正常化も背景化することになった。
こうした石橋の取り組みは、政治的には対米自主独立路線の模索、経済的には日本の産業の振興のために日中貿易の活用、理念的にはイデオロギーという分断的な力の警戒という特徴を持っていた。また、経済関係の改善こそ政治関係の発展に役立つという意味での「政経不可分」を唱え、「政治関係の改善こそ経済関係の発展に役立つ」という中国側とは異なる「政経不可分論」を展開したこと、対中交渉が失敗した場合の責任を自ら引き受けることを明言したこと、党派を超えた「国民運動」としての「対中国交正常化」を目指したこと、政治家主導による交渉を行ったことなども、石橋の対中交渉の特色であった。

以上のような分析と考察によって、日中国交正常化以前の時期における石橋湛山の対中国交正常化に向けた取り組みの特徴が示されるとともに、参加者との質疑応答によって、石橋の取り組みを検討するための重要な視点が得られた。そして、東アジア、あるいは国際関係の中の日中関係を絶えず念頭に置いた石橋の取り組みは、日本と中国の相互補完的な関係を考える上でも顧慮に値するものと考えられた。

【記事執筆:鈴村 裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員】