シンポジウム(2012.3.9)

法政大学国際日本学研究所「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」プロジェクト アプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」
2011年度 シンポジウム『<日本>を意識する時』 開催報告

アプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」
2011年度 シンポジウム『<日本>を意識する時』


  • 日 時  2012年3月9日(金)
  • 会 場  法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー26階A会議室
  • 司 会  田中 優子(法政大学社会学部教授)

左より: 小林ふみ子 准教授、 田中優子 教授

福田安典 教授(日本女子大学)

左より: 佐藤悟 教授(実践女子大学)、
左より:    横山泰子 教授

木村純二 教授(弘前大学)

 

 

 

 

<日本>を意識する時

去る2012年3月9日(金)、法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー26階A会議室において、「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」アプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」のシンポジウム「<日本>を意識する時」が開催された。今回の4件の研究報告の概要は以下の通りであった。

1. 木村純二(弘前大学)/和辻哲郎の日本意識——国民道徳論との関連から——
明治維新後に生じた表面的な欧化政策が行き詰まりを見せた明治20年代は、大日本帝国憲法の発布(1889年)や教育勅語(1890年)などによる「上からの統制」と、日清戦争の勝利による国家意識の高まりという国民の内面のあり方の変化を背景として生じたのが、天皇への「忠」と「孝」とが一体化し、武士道によって支えられた国民道徳という考え方であった。
井上哲次郎は国民道徳を武士道に基づいて説いた代表的な論者であった。井上は、武士道の本質は皇室の護衛、国家の防御といった忠君愛国の考えに基づくものであり、江戸時代は主君への忠義が忠君愛国の考えに優先されるという、武士道本来の姿が変形された時代であるとした。しかし、これは武士道を唱えながら武士が登場する前の時代の姿を基準として参照するという倒錯した議論であった。和辻哲郎は、天皇の本質を権力ではなく権威に求め、「武士道」の「忠」の対象を天皇に向ける井上の議論は偽りであるとして批判した。そして、和辻は、武士の本来の道徳を、主従の情的な結合としての「献身の道徳」であるとし、過去の道徳はそのままでは現在の道徳とならないことを指摘した。和辻が国民道徳論を批判した理由は、和辻には、日本文化の研究を行う際の障壁となる国民道徳論を乗り越える必要性があったためだった。
このように、和辻は歴史的な観点から合理的な批判を行ったものの、道徳の内容を分析するだけで道徳がもつ効果は分析されていない。その点で、「献身」の対象を求める人々の非合理的な感情に対して説得的な議論とはなりえなかったといえるだろう。

2. 横山泰子(法政大学)/幕末の災いと日本意識
文明の進化は人間や国家の高度化をもたらし、その一部が壊れると全体が被害を受けるという意味において、国民国家の成立は、局所的な問題が国家全体の問題となる。それでは、国民国家が成立する以前の段階において、天災が国難となることはあったのか。実際には、近代以前、特に江戸時代の日本においては、天災と対外関係は無関係ではないと考えられていた。
寛文近江若狭地震や、安政地震の際には、「神々が鬼のような異国人と戦っているために地震が起きた」、「日本に開国を求めた諸国は津波で壊滅した。昔は神風で蒙古軍を打ち負かしたが、今は地震や津波が日本を救う」といった噂話が記録されている。これは、「日本が外国から侵略されるときには自然現象が窮地を救う」という観点に基づいていると考えられる。天災と外国人との関わりという点について、「地震を起こす主であると考えられていた鯰と異国人が首引きをし、地震が勝つ」という内容の鯰絵が描かれた。
また、安政のコレラが流行した際に、「異国人がもたらした石鹸が原因である」、「異国からの廻し者が放った千年モグラが原因だ」といった噂が発生するなど、「病気の原因は異国人である」という考えがあった。一方、外国人の中には、「日本人はコレラの流行を外国人のせいにしたが、日本人の方は、コレラ流行時のヨーロッパの人々よりも落ち着いた行動を取っていた」という評価を行う者もいた。
以上のことから、危機的な状況の際に日本が強く意識される、ということができるだろう。

3. 福田安典(日本女子大学)/「平賀源内の日本意識」
平賀源内に対しては、「外国の情報を得るのが難しい時代であるにもかかわらず世界に目を向けていた」、「柔軟な発想をもった人物」といった肯定的な立場から「大ぼら吹き」という否定的な見方まで、様々な評価がなされている。
各種の著作において世界各国の様子に言及するというのが、平賀源内の特徴であった。一般に、そのような世界各国の知見については、『和漢三才図会』や西川如見の『華夷通商考』が主たる情報源であるとされている。また、自著の中で対象の名称のラテン語による表記を用いたのは、「世界で通用する言語はラテン語である」という趣旨の記述を残し、平賀源内が私淑した新井白石の影響を受けていたと考えられる。
それでは、何故、ラテン語や他の言語に言及したかといえば、名物学が平賀源内の本領の発揮された分野だったからである。名物学とは中国の典籍の中に現れる事柄を日本の事柄と一致さ、漢字という「名」を日本の実在物という「物」に比定する学問であった。そして、火浣布やエレキテルを記述する際に対応する西洋語を掲載するのは、まさに名物学の手法そのものであった。名物学の手法は小説を書く際にも用いられており、その意味で、名物学は平賀源内にとって内面化した学問であるといえる。
このような平賀源内の態度を勘案するとき、「名物学を中心とし、日本にはない海外の文物を日本で生産することが日本の利益になる」ということが、平賀源内にとっての日本意識であるといえる。

4. 佐藤悟(実践女子大学)/19世紀の出版統制と外国
文化四(1807)年、従来の行事改に加え、四人の名主による名主改の制度が始まり、出版物の検閲体制の再編が行われた。そして、名主改制度の導入の背景には、文化露寇と呼ばれる日本とロシアの緊張関係があった。
文化元年に長崎に来航したレザノフは交渉失敗の報復のために千島と樺太への侵攻を指示して交戦が行われ、幕府はそれに対応するために東北諸藩に出兵を命じた。千島・樺太は日本の経済活動に組み込まれた地域であり、また出兵準備等により、この事件は広く知られるようになった。
幕府は江戸において文化露寇に関わる風説の流布などを禁止する町触を出し、出版統制の更なる強化を図り、従来の行事改から名主改へと、統制を強化した。具体的には、元寇を時代背景とした『由利稚野居鷹』は、ロシア軍の侵攻を連想させたため、時代背景を承久の乱後に変更させたり、『泉親衡物語』では文章の改変を指示したなどの具体的な事例が知られている。これらの統制は、文芸作品が商業出版であったため、処罰が板元の経済的な損失に直結し、有効に機能した。
ただしこれらの規制はロシアとの関係に限られ、オランダ等との問題については放任されていたようである。幕府の外国への危機意識は、攘夷という形ではなく、ロシアに対する情報統制という形で現れたことに注目しなければならない。
したがって文化露寇を契機として出版統制が強化されたことは事実であるが、風説の流布への対応と見るべきであり、文化元(1804)年の『絵本太閤記』の発禁処分、それに伴う色摺絵本への規制強化といった一連の出版統制策の中の一環として名主改の創始を考えるのが妥当であろう。

以上のような報告を受け、全体討論では日本意識を巡る諸問題について活発な議論が行われた。その中で、「直接体感できる危機は対象だが、体感できない危機や国難はどのように理解されたのか」、「どのような主体が国難を理解したのか」、「危機と日本意識が一体化するのはどのような状況か」、「日本意識は対外的な優越感と劣等感の合成物ではないか」といった意見が提出された。
このような意見は今後の研究を進める際の指針となりえ、2011年度の研究活動の集大成として、意義のあるシンポジウムが行われたと考えられた。

【報告者:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】