沖縄研究会(2009.6.13)

学術フロンティア・サブプロジェクト3 日本の中の異文化 沖縄研究会

・日 時:  2009年6月13日(土)10時00分〜16時00分

・場 所:   琉球大学教育学部棟演習室

 

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2009年6月13日(土)の10時から琉球大学教育学部棟演習室にて、「南の境界」をめぐる研究会を開催した。出席者は、沖縄県立芸術大学・安里進先生(考古学)、奄美市立奄美博物館・髙梨修先生(考古学)、鹿児島大学・新里貴之先生(考古学)、琉球大学・中本謙先生(日本語学)、それに法政大学側からプロジェクトリーダーのクライナー・ヨーゼフ先生、小口雅史先生、それに本文執筆者(吉成)の合計7人。また、琉球大学の池田榮史先生(考古学)が、研究会の傍聴を希望されたが、傍聴のみならず、積極的にも討論にも加わっていただいた。途中の休憩を含めて、6時間以上にわたって報告と討論が活発に交わされた。

クライナー・ヨーゼフ先生のこれまでの経緯などを交えながらの挨拶に引き続き、小口雅史先生から昨年の青森での新田遺跡をめぐる「北の境界」の研究会の成果を踏まえ、「北の境界」と城久(グスク)遺跡群(喜界島)にみられる「南の境界」を、律令国家の南北の外縁として果たして対応させて議論することが可能か、という問題提起がなされた。新田遺跡のあり方を見る限り、ローカル色が強く、中央権力に結びついた在地勢力の遺跡と考えられる一方、城久遺跡群の場合は、出土遺物は外来のものであるものの、遺構などの点で貧弱であり、律令国家の出先機関として捉えるのは難しいのではないかということであった。この問題は、城久遺跡群の性格をどのように評価するかということにかかわっており、総括討論において改めて検討することになった。ただ、南北の比較の問題については、討論の過程で、即物的にみればまったく異なる様相をみせるが、国家の辺境に作用する力学という視点からみれば共通性が浮かびあがるのではないかとの意見が提出された。

?新里貴之先生は「琉球列島における弥生時代並行期以降の土器編年」と題して、中世並行期までの、地域ごとの精緻な土器編年を提示された。この新里報告によって、研究者によって編年に違いがみられた弥生〜中世並行期について共通する年代観にもとづく議論が可能な土台がつくられることになった。具体的に言えば、兼久式土器編年については対立案が提出されているが、ここでは髙梨編年が採用されており、これについて異論は出ず、また城久遺跡群出土土器は古代〜中世に至るまで一貫して点的に異質であり、改めて城久遺跡群の琉球列島全体に占める異質さが浮き彫りにされることになったことなどである。

続いて「城久遺跡群、ヤコウガイ大量出土遺跡群、カムィヤキ古窯群からどのような歴史的展開を描くことができるか」をテーマに安里進先生、髙梨修先生からの報告を得た。安里先生は、これまでの髙梨先生の成果を検証するかたちでいくつかの点について、髙梨先生への質問が投げかけられ、それをうける形式で髙梨先生が改めてこれまでの見解を述べるとともに、安里先生の質問に回答した。安里先生からの質問は、1.城久遺跡群の評価について、2.奄美の兼久式土器編年について(とくに、土器編年と社会段階論の関係について)、3.「ヤコウイガイ大量出土遺跡」の定義について、4.奄美諸島の社会段階論と琉球王権の形成について、の四つを柱とするものであった。議論が集中したのは3.と4.についてであり、ここではこの二つについておもに取り上げる。

髙梨先生は、文献史学側から古代期に社会階層が存在していると考えられてきたが、考古学側はそれに対して対応ができなかったこと、南蛮賊人(奄美嶋の者)などの大宰府管内襲撃事件に対して「キカイガシマ」に「下知」がくだされるが、それが具体的に喜界島の城久遺跡群として姿を現したと考えられること、時代はくだるが、南北の境界の問題に関連し、北の得宗家・安東氏の新渡戸家文書と、南の得宗家・千竈氏の千竈家文書の様式がよく似ていることなど、文献史学側と考古学側の接点をいかに探るかを述べた後、城久遺跡群の様相について説明し、さらにグスク時代以降の沖縄諸島以南の土器文化の様相が、城久遺跡群の土器文化を模倣したものであること、それには人の移住がともなわなければ、こうした広範な変化は生じないとの見解を示した。その後、安里先生の四つの質問への回答を寄せた。

3.の何をもって「ヤコウガイ大量出土遺跡」とみなすかという点については、たとえばヤコウガイの数量という連続的な値で機械的に区分けしようとしても、人為的な恣意的な分類にしかならず、明らかにヤコウガイをストックしているという意図が認められる場合(たとえば、数個ずつのヤコウガイが仕分けされた状況で出土するなど)は、「ヤコウガイ大量出土遺跡」と認めるべきであろうとの見解で大方の一致をみたと考える。ヤコウガイが単にたくさん出土するだけでは、それと認めないとする立場である。

また、4.の問題はきわめて重要な論点であった。奄美諸島が、社会階層形成において古代〜中世並行期(7世紀〜12世紀)に沖縄諸島よりも優位であったとすれば、なぜ社会階層の面で遅れていた沖縄諸島で王国が形成されることになったのかという疑問である。この問いの回答として、1.外的要因として、14世紀初頭の千竈家文書にみられるように奄美諸島は国家的秩序の中に組み込まれており、その秩序を維持する方向で動いたこと、2.13世紀は元の活動が活発化し、東・東南アジア世界において大きな変動がもたらされた時期であり、その大きなうねりの中で国家形成の問題を考える必要があること、3. 2.に関連して、情報に精通していた人々が国家を形成した方が交易などの面で都合がよいと判断したためではないか、などの意見が出された。ただし、この点については、沖縄諸島のグスク時代以前〜グスク時代開始期の社会像をさらに明らかにしなければならない課題である。また、上記の1〜3で意見が集約されたわけでもない。

城久遺跡群の遺物の出土状況は、8世紀後半のものも出土するが、11世紀をピークとして、12〜13世紀になると薄くなる状況にあり、この12〜13世紀は沖縄諸島においてグスク時代が本格化し、やがて13世紀には大型グスクなどもつくられた時代であった。したがって、城久遺跡群の盛衰の年代と沖縄諸島のグスク時代は、よく対応していることになり、城久遺跡群からの沖縄諸島への南下を想定する論者には、その傍証になりうる。その場合、12〜13世紀に城久遺跡群で何が起こったのかが問題として残される。

沖縄諸島が主体になって弥生時代から九州にゴホウラ、イモガイの供給を行い、やがてヤコウガイの供給などを行っていたとする議論について、2007年2月に奄美大島で行った研究会(奄美市立奄美博物館)における新里貴之先生の報告は、ゴホウラ、イモガイの交易は奄美諸島を中継地とした交易ネットワークを想定しており、また、その後の討論においてもゴホウラやイモガイの集積遺跡があること自体、それらは需要がなかったため捨て置かれたものであって、沖縄諸島は交易の末端に位置づけられていたのではないかとの意見が出されていた。

城久遺跡群の性格について、遺物と遺構のギャップが大きすぎ、それをどのように把握すべきか、という問題が最後まで残された。遺構の貧弱さは行政の末端に位置づけられていたとは考えにくいということである。しかし、城久遺跡群は、この遺跡群がある台地上に存在する遺跡群のごく一部にすぎず、台地上全体が防御的な遺跡群を形成しているとみなすべきであること、また南蛮賊人の大宰府管内襲撃事件が起こった際、「キカイガシマ」に「下知」がくだされた事実を勘案すれば、その場所として第一に考えられるのは喜界島の台地上の遺跡であろうとの意見が要約するかたちで提出された。したがって、現時点においては、史料を裏づける物証とみなしうる反面、資料論として問題が残るが、城久遺跡群を含む広大な遺跡群は、何らかの行政組織の末端に位置づけられていたのではないかという見解が有力になったと考える。

なお、琉球語祖語の流入時期の問題について、中本謙先生は、琉球語のハ行子音p音はこれまで考えられていたよりもかなり新しい可能性が高く、グスク時代開始期頃における北からの集団の移動を想定する考えと矛盾しないとの考えを示されている。

【記事執筆:吉成直樹(法政大学沖縄文化研究所専任所員・教授)】