【開催報告】法政大学国際日本学研究所主催・法政大学江戸東京研究センター・法政大学エコ地域デザイン研究センター共催 : クリスティーナ・カステル=ブランコ教授講演会 『16世紀の驚き:日本にとっての西洋との初めての出会い』(2024年4月14日(日))2024/07/22
【開催報告】
クリスティーナ・カステル=ブランコ教授講演会
『16世紀の驚き:日本にとっての西洋との初めての出会い』
■開催日時:2024年4月14日(日)13時00分~16時20分
■会 場:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナード・タワー26階 スカイホール 【対面開催】
■講 師:クリスティーナ・カステル=ブランコ氏(リスボン大学教授、ランドスケープ建築家)
■通 訳:高川 定義氏(元外務省在ポルトガル日本大使館公使参事官)
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ポルトガル人のランドスケープ研究者でルイス・フロイスに関する大部な著作(Luis Frois:First Western Accounts of Japan’s Gardens, Cities and Landscapes, Springer,2020)を出版したクリスティーナ・カステル=ブランコ教授をお招きし、4月14日(日)の午後、法政大学市ヶ谷キャンパスのB T棟26階のスカイホールで、「16世紀の驚き:日本にとっての西洋との初めての出会い」と題し、この本の紹介を中心にルイス・フロイスに関する講演会が開催された。
(クリスティーナ・カステル=ブランコ氏)
ルイス・フロイスといえば、ポルトガルのイエズス会宣教師で、16世紀後半の37年間に渡る日本での経験を膨大な手稿に残したことで知られる国際交流史上、極めて重要な人物である。岐阜城や安土城への訪問、織田信長、豊臣秀吉、千利休らとの対話について報告したことでも注目される。
フロイスをめぐる幅広い観点の中でも、今回は、カステル=ブランコ教授の専門の立場から、16世紀後半の日本の文化全般、宗教施設、庭園や茶室、都市、風景などをフロイスが西洋人の目でいかに観察し、その特徴を表現したのかを比較文化研究の視点で論じてもらった。
カステル=ブランコ教授は、リスボン大学農学部でランドスケープ・アーキテクチャーの学位を取得。フルブライト奨学金を得て、マサチューセッツ大学で修士号を取得。その後、リスボン大学教授として、ランドスケープ・アーキテクチャーの歴史、修復、エコロジカル・デザインを研究してきた。ユネスコ・イコモスなどの文化機関や政府機関において、文化的景観の領域で国際的に活躍し、2015年にフランス政府より芸術文化勲章オフィシエ、さらに2020年には日本政府より功労賞を授与されている。
そもそも私とカステル=ブランコ教授との出会いは、ユネスコの世界遺産登録を目指すイタリアのトスカーナ州キャンティ・クラシコ地域のワイン・コンソシアムが主催するオンライン会議に、お互い国際委員で参加していたことから生まれた。カステル=ブランコ教授が大の日本贔屓で、私が日本での世界遺産登録を目指す地域の例として京都の宇治地域で行った調査結果を報告した際にも大きな関心を示し、日本のお茶を毎日飲んでいるとも話され、私も親近感を覚えていた。その後、彼女がルイス・フロイスに関する前述の著作(英文)を刊行したことを知り、すぐ電子書籍で購入して目を通したところ、これは、外からの眼で日本文化の本質を対象化し研究するという意味で、まさに法政の国際日本学研究所にとってぴったりのテーマだと直感し、同時に法政の江戸東京研究センター、さらにはエコ地域デザイン研究センターにとっても大いに関心のあるテーマであるに違いないと考えた。幸い、カステル=ブランコ教授が3月から4月にかけて来日されるという話を伺い、その滞在中の機会を捉え、法政大学での講演をお願いできないかと打診したところ、喜んで引き受けるとの嬉しい回答をいただいたのである。
早速、法政学内の関係メンバー、特に国際日本学研究所の横山泰子所長と相談し、このテーマに最も相応しく、しかも講演会開催の予算枠を持つ国際日本学研究所に主催をお願いし、加えて江戸東京研究センターとエコ地域デザイン研究センターの共催という、法政の3つの研究所、研究センターがコラボする画期的な形での開催が実現できたのである。
それからは、具体的にどういう形で講演会を企画するかを関係者の間で話し合った。まず、通訳をつけるかどうか。英語で講演してもらう場合は、どうしても研究者仲間での少数の閉じた講演会にならざるを得ない。だが内容が興味深いだけに、英語で講演し、逐語訳の通訳をどなたかにしていただくという道を探った。幸い、国際日本学研究所の小口雅史先生が長年親しくしてこられた元外務省在ポルトガル日本大使館公使参事官の高川定義氏をご紹介下さり、快く通訳をお引き受けいただいた。ポルトガル語も英語も堪能で、ポルトガルの歴史、文化を知り尽くした方である。しかも幸運なことに、高川氏が講演者のカステル=ブランコ教授を以前からよくご存知で、ポルトガルでお会いしたことがあるとのことで、早速、2人の間でのメールのやり取りも始まり、その後、講演の準備を実にスムーズに進めることができた。あらかじめ講演内容のパワーポイントのデータに加え英文テキストも送っていただき、高川氏が目を通して下さり、講演当日も早めに会場に行って控え室で入念なリハーサルもしてもらえた。
となれば、できるだけ大きい会場をとって専門家に限らず、幅広い層の大勢の方々に聞いていただきたいと考えた。幸いにもボアソナード・タワー26階のスカイホールを予約でき、打ち合わせのための控え室、簡単な懇親会用に同じフロアーのラウンジも確保することができた。
ここまで段取りできれば、あとはせっかくの価値ある講演をできるだけ大勢の方々に聴講して欲しいと思いつつ、宣伝の活動に力を注いだ。後から知ったのだが、カステル=ブランコ教授は2007年から毎年のように来日し、様々な大学、文化団体から招かれ講演、研究活動を行ってきたとのことで、日本で交流されてきた大勢の専門家の名簿を送って下さった。私のよく存じ上げる造園、景観、建築史、環境の市民活動家など、実に幅広い分野の方々の名前が並んでいるのに驚かされた。まずはその方々へ招待メールを送り、そして私の属する地中海学会、都市史学会、さらに関係する研究グループなどに依頼し、幅広く広報をしていただいた。もちろん国際日本学研究所のホームページ、江戸東京研究センターとエコ地域デザイン研究センターのネットワークでも宣伝をした結果、嬉しいことに、コロナ明けとしては最高とも思える120名を越す応募があり、それ以上を受け入れると長テーブルに3人掛けとなって密な状態が避けられないため、講演の2日前に受付を締め切らせてもらった。当日は90名を超える老若男女の大勢の方々が参加し、久しぶりにスカイホールに熱気が漲る雰囲気のなかで講演会を実現できた。
(会場の様子)
カステル=ブランコ教授の刺激溢れる興味深いプレゼンテーション、そして高川氏による実にわかりやすい見事な逐語訳で、トータル2時間強の講演があっという間に終了。前半、後半のそれぞれの講演後、様々な専門、立場からの多角的な視点からの面白い突っ込んだ質問が続出した。そのどれにもカステル=ブランコ教授がさすがと唸らせる素晴らしい応答を示し、1時間以上に渡る白熱したディスカッションが続いたのである。日本での講演会では滅多に見られない嬉しい光景だったと言える。周到な準備から当日の講演・質疑応答の通訳まで大役を務めて下さった高川定義氏には心からお礼を申し上げる。
なお、講演の内容については、通訳を担当された高川氏に次にご報告いただく。
【執筆者:法政大学名誉教授・江戸東京研究センター 特任教授 陣内秀信】
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1543~1600年の約60年間は遠藤周作氏の小説とは異なり、日欧の文化が信頼と相互授受により固く結びついた時代であった。これはイエズス会士フロイスに因るところが大である。43年の長きに亘り日本に滞在し、日本語を習得して最高権力者達と渡り合った。また、『日本史』など、ヴァチカン図書館に総計四千ページもの文献を残している。信長や秀吉がキリスト教を保護するよう尽力した。
この60年間の両国関係が協調的なものであり、両者間の信頼感が中心的な役割を果たして二つの文化の間の交流や相互伝搬を可能にしたのだと、フロイスを読んで確信した。
フロイスは事実上の大使として日本文化を率直に尊敬し敬愛した。そのため、信長と交渉して布教を可能ならしめたり、千利休と交渉して秀吉がキリシタンの信教の自由を保証するように訴えることもできる理想的な人物となった。
信長を始めとする戦国大名達は鉄砲に関心を抱き、封建社会の勢力関係の変化と国家統一をもたらせた。地球が丸いことや、漢方には見られない外科手術などの西洋医学を日本人が初めて学ぶこととなった。また、知識階級は南蛮船で到着した文物に好奇心を抱き、地図製作から造船術、医学、栄養学、美術に至るまで、目新しい文物がポルトガル商人や、その7割がポルトガル人で占められたイエズス会士らによって紹介された。商人達はポルトガルとの交易により利益を得たためポルトガル、インド、マカオからもたらされる文物に関心を抱いた。
庶民もポルトガル人の来訪により裨益した。フロイスは豊後(現在の大分県)で孤児を養っていた自分たちの住居の傍にルイス・デ・アルメイダが病院を開設したと書き残している。松田毅一氏に拠れば、1557年までには豊後国府内(ふない。現在の大分市)に病院が開設され、アルメイダが院長を務めていた。病人やハンセン病患者達はキリスト教的慈悲の一環として社会的支援を得ることができた。現地には記念碑が残っている。神父たちは日本人が見たこともなかった病院を開設した。宣教師ルイス・デ・アルメイダの治療を受けるため多くの人々が殺到した。医学分野におけるポルトガル人の影響は大きく、短期間で知識が日本人に伝えられ、確立され、広まった。
日本の学芸・技術に大きな影響を与えたポルトガルなど欧州諸国との交流は百年も続かなかったが、私の著書は、両文化間の穏やかな信頼と相互授受関係が続いた60年間のみを扱っている。この時期に当たる1563年にフロイスは来日するが、1984年にマイケル・クーパーが毎日デイリーに書いたフロイス像を引用したい。
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1532年にリスボンで生まれ王室書記官として働く。イエズス会入会。1563年日本に到着 、1589年に『日本史』を執筆。34年間日本で布教し1597年長崎にて没。
フロイスは、日本における教会の進展と挫折を欧州の読者に伝える詳細な宣教報告書を執筆・編集し、また、朝鮮出兵や1595年の豊臣秀次の自害など、時事的な話題についても綿密な記述をまとめた。イエズス会総長アクアヴィーヴァ神父の依頼により『日本史』全5巻を編纂した。1591年に宣教師達が秀吉に謁見した際の献上金の額や各宣教師に下賜された絹や銀の分量を詳細に記していることからもフロイスの綿密な性格が窺える。1596年の秀頼三歳時の参内などに関する記述も日本側の記録と殆ど完璧に一致している。信長や秀吉と面識があり、信長は時に何時間にも亘りフロイスから西洋の生活・慣習を聞き出そうとしたので、フロイスが日本の出来事につき的確な記述ができたのは当然と言える。ルイス・フロイスは並外れた年代史家と言えよう。
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欧州伝来の諸文化に日本人の眼を向けさせるのに不可欠な信頼関係の醸成にフロイスは貢献し、両国関係に不可欠な四つの使命に関わっていた。即ち、千利休のような最大級の影響力保持者達との接触、日葡両文化による長崎の建設、宗教や科学、知識を振興した数多くの神社仏閣への訪問、そして、「日本史」や「日欧文化比較論」の中に恰も現在の写真機のごとく、但し、画像の代わりに言葉を用いて日本のあらゆる事象を事細かく記録した。
フロイスはカトリック僧であったが、仏教寺院庭園や東屋にも見識を持ち、異質の美学や異なる宗教への寛容さを披瀝した。イエズス会士達以外にも他者を理解した者はいたかもしれないが、少なくともイエズス会士達以前に、欧州の枠組みから自らを解き放ち他者の世界に入り込んだ者はいなかったであろう、と文筆家のエドゥアルド・ロウレンソも述べている。フロイスは自らとは異なった日本人社会に入り込み友人を作ったのだ。「日欧文化比較論」において、フロイスは611もの文化比較を行い、日本の慣習、文化、芸術、建築、食物、農業、造園などにおける相違を批判する代わりに受容している。
日本人は蹴鞠を嗜み欧州ではボールを手で扱う。日本人は桜の枝を手折り欧州ではサクランボを摘み取る。洋服は体型にぴったりと合致し、和服はゆったりと纏うので、いとも容易く上半身を晒すことができる。欧州女性はすぐに白髪になるが、日本女性は油で手入れするため還暦を迎えても髪は黒々としている。欧州女性はピアスを用いるが日本女性はイアリングを用いない。欧州では大きな眼を愛でるが日本人は切れ長の眼を好む。
「日欧文化比較論」は1993年にフランスの社会人類学者クロード・レヴィ=ストロースにより仏語版が出版されている。彼は、二つの文化は類似と同時に差異を現し恰も鏡に映る像のようだと述べ、フロイスの著作が如何に異文化の奇異感を閉じ込め親近感を齎せたかを論じている。日本では当初の60年間は平穏に文化の授受が行われた。今でも日本の料理本で扱われている天ぷらやカステラ、南蛮漬けのようなものまでが伝えられた。
茶の湯の大家で信長や秀吉の茶の師匠でもあった千利休は庭園の設計や戦国の知略においても重きをなした。茶の湯自体も日本社会の種々の振る舞いを定める大本となった。三千頁に及ぶ日本史の中で宗易の名を辿ると興味深い記述に出くわす。
『高山ジュスト右近は、関白秀吉を自分と親しい宗易と同時に招き、宴の最中に二人してキリシタン保護を強く訴えたため、遂に秀吉はこの件に触れることを禁ずるに至った。』
この報告から明らかなのは、利休自身は仏教徒にも拘わらずキリシタン大名の右近と親しく、また、フロイスとも友人であったことである。イエズス会士達は茶を好み、「ティー」ではなく『茶』の名でポルトガル本国に紹介した。また、茶の作法に用いる抹茶箱をカトリックの典礼に用い、茶室の建築様式を礼拝堂に用いマカオでも採用した。利休は、聖体拝領を参考に茶の湯の儀礼を改めた。
京都で武者小路千家の千宗守家元と会ったが、彼もカトリックの典礼が茶の湯に与えた影響を理解していた。利休はにじり口を導入したことでも知られるが、武器を持たずに腰をかがめて入室し互いが対等に接する空間は、キリスト教の求める謙虚、友愛、平等の三つの要素と平和をも満たすものでもあった。これらの事実は、弾圧と隔離の期間を経て、今なお二つの宗教の枢要な互恵関係が続いている証左である。更なる研究の価値があろう。
長崎の街は友好的共生関係を象徴している。二つの文化が融合し1560年当時の寒村が革新的な都市計画を経験することとなった。そして外国船が出入りする貿易港として日本を世界と結びつけた。長崎港の歴史は独特である。イエズス会士達がリスボンを出て東アジアに向かう際には既にリスボンの街並みがその脳裏にあった。テージョ河口の広い湾、平地部を取り囲む丘の上にそびえる城塞、広大な埠頭前広場、西側斜面にそそり立つカルモ修道院などがリスボンの特徴的風景と言える。また、水との関わりも密接で多くの船が水面を覆う光景はルネサンス期のリスボンの特色であり、17世紀初頭に日本人画家が描いた神戸美術館所蔵の屏風にも再現されている。
長崎の建設に当たった日本側関係者達には古都の奈良や京都の先例も参考となった。平地部の碁盤目街路、川の流れと土地の起伏、周囲の山々に残された自然林などは奈良の都市設計の特色と言える。日葡両国の関係者達が奈良・京都を参考に長崎の都市設計に応用した要素も幾つかある。
大型船向きの深い湾、ポルトガルの都市には必ずあるが日本の他の都市には見られないような埠頭前の広大な広場、ポルトガルの都市には欠かせないが日本には見当たらない丘の頂上や斜面の街並み、ポルトガルでは希だが日本の都市には必ず見られる橋の架かった開渠、17世紀以前のポルトガルでは見られない平地の碁盤目街路、と言ったものである。
長崎の領主でドン・バルトロメオという洗礼名を持つ大村純忠は貿易を振興し周辺地域も均霑した。また、ポルトガル人達は日中貿易に深い関心を抱いた。純忠は長崎をイエズス会士達に与え、会士達は長崎の都市建設のため日本人と協力した。この結果、長崎は両国民の平和と共通利害と尊敬と相互関心により設計された日本初の国際都市となった。長崎の人口は急速に拡大することとなったが、これは街が人口増に対応するよう設計されていた証左でもある。1579年の長崎は400戸程度の寒村であったが、1590年には人口5,000を誇り全国にその名を知られるに至った。17世紀初頭に人口は15,000を数えるに至る。
リスボンも長崎も地形は似ている。湾が広くて深く、また、艦船が狭い回廊を通過して出入りする必要があり、16世紀当時の港湾防衛に用いられた大砲の射程に入らざるを得なかった。大型船による大航海を通じて長崎は世界に向けて開かれた街となった。この街の独特の国際融合は市内の観光ルートを辿れば確かめることができる。多文化共生が求められる国際化の進む世界において、長崎を中心とするこのような相互受容は融合型都市設計の好例とも参考ともなろう。これは当時の社会においては珍しく、また、両国の文化を相互尊重と協調の好例とすることともなる。
ポルトガルのイエズス会士達は京都や奈良における仏教寺院や神道社殿、宮城や庭園を賛美している。協調と相互関与が支配したこの時代にフロイスは京都の17、奈良の6つの庭園、また、9つの重要な都市につき書いている。私はこれらの場所を訪れ、写生し、撮影し、これらの街の庭園に関するフロイスの記述と比較してみた。日本とポルトガルの協調的関わりの例として、フロイスが描いた京都と奈良の庭園を取り上げたい。彼は驚くほど数多くの庭園の芸術性につき述べている。
京都の清水寺は1565年に訪れ美しい泉について語っている。東寺や京都御所の斎庭(ゆにわ)、東福寺通天橋や三門、大徳寺など数多くの名所を挙げている。奈良では6つの旧跡を語り、特に興福寺、春日大社、東大寺を挙げている。私の著書においては、これらの名所旧跡は歴史と図像学により説明されている。鹿島奨学金を得て東大史料編纂所を訪れ、岡先生に多大のご支援を頂いたのである。南蛮屏風には、外来船によりもたらされた珍しい品々が、顔料や金箔と千年の歴史を持つ日本画の技術により350年の時を隔てて体現されている。今日までに91の南蛮屏風が発見されているが何故英国人やオランダ人が描かれなかったのであろうか。
なお、『日本誌』の執筆で知られるエンゲルベルト・ケンペルは、日本とポルトガルの文化が類似している原因として、緯度が近く気候が類似している点を指摘している。
【執筆者:元外務省在ポルトガル日本大使館公使参事官 高川定義】
(左から高川定義氏・クリスティーナ・カステル=ブランコ氏・陣内秀信氏)