【開催報告】平成28年度科学研究費 第5回研究会(2017.2.24)2017/02/27

平成27年度科学研究費若手研究(B)採択
「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」
第5回研究会

 

「パブリック・ディプロマシーの観点からみた新渡戸稲造」

日 時: 2017年2月24日(金)18時30分~20時30分
場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス九段校舎別館3階研究所会議室6
報 告: 上品和馬(早稲田大学)
司 会: 鈴村 裕輔(法政大学)
主 催:  鈴村裕輔(平成27-29年度科学研究費助成事業(若手研究(B))
「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」
[研究課題番号:15K16987]
後 援: 法政大学国際日本学研究所

 

報告:上品和馬氏(早稲田大学)

 

2017年2月24日(金)、法政大学市ヶ谷キャンパス九段校舎別館3階研究所会議室6において、研究会「パブリック・ディプロマシーの観点からみた新渡戸稲造」が開催された。

本研究会は、平成27年度科学研究費若手研究(B)採択「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」(研究代表者:鈴村裕輔、研究課題番号:15K16987)による第5回目の研究会であり、講師に上品和馬氏(早稲田大学)を招き、法政大学国際日本学研究所の後援の下に実施された。

報告の概要は以下の通りであった。

ある国の政府が他の国の政府に対して働きかけ、交渉することは外交であり、両国の国民同士の交流は民間交流である。これに対して、ある国の政府が他の国の国民に対して自国の広報や宣伝を行う取り組みがパブリック・ディプロマシー(PD)である。戦前の日本においてPDに携わった人物としては金子堅太郎や末松謙澄、あるいは鶴見祐輔の名前が知られている。そして、国際的な知名度と評価の高さという点で、新渡戸稲造も戦前の日本のPDを考える際に重要な人物である。

新渡戸の名前は1900年に出版したBushido: The Soul of Japanによって現在に至るまで広く知られている。Bushidoは新渡戸にとって最初のPDの取り組みであり、その後、1911年に日米交換教授として渡米し、全米各地で166回の講演を行い、1920年には国際連盟事務次長に就任するなど、国際的に活躍するとともにPDを行った。

新渡戸は社会的ダーウィニズムを信奉し、天を上位に置き人間を下位とする「形而上の関係」と英米を上位、中国や朝鮮を下位とし、その中間に日本を位置付ける「形而下の関係」からなる二元的な世界観を有していた。そして、真実を善悪ではなく真実そのものとして受け止められる者のみが形而上と形而下の上下関係を正しく認識できるとした。また、19世紀末から20世紀初頭にかけて「植民」という言葉は「荒れ地の開拓」と同じという認識であった。そのため、農学を修めた新渡戸が植民政策学を専門とすることは今日では違和感があるものの、実際には荒れ地や辺境の開拓という側面から「天が与えた土地を開拓することが人間の使命」という考えに基づいていたのである。

20世紀に入ると米国で排日運動や黄禍論が高まる。このような状況に至った理由として、新渡戸は米国人が日本や日本人に対する無知が原因であると考え、英文の著作を出版して米国人に日本の実情を伝えるとともに、その後も継続してPDを行った。その一方で新渡戸は戦間期に満洲開拓を行うことを日本の方針として提唱したことは、その後の日本が新渡戸の提案の通り満蒙開拓を進めた事実に照らし合わせる時、新渡戸の国際情勢に対して現実的な認識を行っていたことを示唆する。

1920年に国際連盟が発足すると事務次長に就任した新渡戸は、第一次世界大戦後に悪化した日本の対外的な印象の改善と日本人が受けていた人種差別の改善に取り組んだ。そして、具体的には「発信」、「交流・協働」、「人格の活用」、「国際貢献」、「国際正義の確立」を、PDを通して行った。その一方で、国際連盟事務次長としての新渡戸は自国の代表者としてではなく、国際連盟のために活動した。

新渡戸が最初に行ったPDは「発信」であった。1910年代から1930年代にかけて新渡戸は欧米の新聞や雑誌から好意的に評価され、しばしば“Nitobe says”というように発言が紙面を飾ることがあった。しかし、新渡戸は自分自身の評価が高まる一方で、言葉には限界があると考え、「交流・協働」へと移行する。そして、新渡戸は個人交流を行うとともに後のユネスコの原型となる知的協力国際委員会を創立する。新渡戸が知的協力国際委員会を設立したのは、日本一国のみのPDではなく、各国が協働して参画することで日本の対外的な信頼度を向上させるとともに、協働と経費負担によって相互の理解を深めることを目的としていたからである。さらに、新渡戸は国際環境の中では人格者の存在が重要であるとの考えから、「人格の活用」によるPDを行い、日本が世界で評価されるために「国際貢献」を行い、倫理面ではなく、国際政治の側面で正義を確立する「国際正義の確立」を目指した。

満州事変後に国際連盟を脱退した日本にとって、太平洋問題調査会(IPR)は国際社会に対する重要なPDの場であった。新渡戸もIPRに参画しており、意見交換や交流を通して外国人の日本への偏見を取り除くことを試みた。しかし、その後、IPRは学問的、科学的な機関から政治的な組織へと性格を変えることになった。こうした状況の中で、新渡戸は1932年に渡米し、再び「発信」を通したPDを行うことになった。これは、交流も重要だが言葉による「発信」も重要であり、特に欧米人の場合は言葉により明確に意見を伝えることが必要であると考えたためであった。米国で再び高まった排日運動について、新渡戸は米国の事情として「米国にとって中国の重要性が高い」、「米国による中南米支配の正当化」、「不戦条約に対する法学者の解釈の狭さ」、を挙げ、中国の事情として「中国による日本非難の巧妙さ」、「中国寄りのアメリカ人の日本非難」を示し、日本の事情として「日本事態の国際社会からの逸脱」を指摘した。そして、講演の中で経済のブ ロック化により戦争は不可避であることにも言及した。

新渡戸のPDの取り組みと結果を総括すると「発信」から出発し「交流・共働」を進めるもの一時は渡米を拒否し、やがて「発信」を再開するなど、様々な要素が交錯していたことが分かる。さらに、現地調査を積極的に行い、Bushidoなどの英文の著作を上梓することで米英の知識人に対する「発信」を行い、その結果として欧米の新聞や雑誌で新渡戸の評価が高まり、発言が引用されるようになった。さらに、受信側が受け入れやすい環境を形成することは情報発信に必要な側面であり、新渡戸も例えばBushidoにおいて欧米の事例を多数引用しながら議論を進めることで受信者の理解の促進を図っている。この点も、新渡戸のPDの特徴ということが出来るだろう。

以上、上品氏が行った新渡戸稲造をパブリック・ディプロマシーのあり方の検討によって、英語版『東洋経済新報』による対外的な情報発信を考える際に重要な視点が得られることになった。

 

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】

 

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