【開催報告】アプローチ(1)第1回研究会『1764年の朝鮮通信使の視座からみる日本意識』(2014.6.26)報告記事を掲載しました2014/06/30

「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討−<日本意識>の過去・現在・未来」
アプローチ(1) 「<日本意識>の変遷−古代から近世へ」
第1回研究会

1764年の朝鮮通信使の視座からみる日本意識


 

開催期間   :  2014年6月26日(木) 18時30分〜20時30分

報 告 者  :  鄭 敬珍(ジョン キヨンジン/法政大学大学院人文科学研究科国際日本学インスティテュート博士後期課程)

会  場   :  法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階国際日本学研究所セミナー室

司 会 者  :  小林ふみ子(法政大学国際日本学研究所所員、文学部教授)

約200年の間、朝鮮通信使は12回にわたり日本を訪れた。朝鮮通信使団の日本訪問には国書伝達や文化の交流といった政治的、外交的な目的もあったが、18世紀に入り、時代が下るにつれ詩文や筆談の唱和に対する日本側の要求が高まり、朝鮮通信使の一行として日本人と詩文や筆談を専担する製述官や書記も派遣されるようになった。とりわけ江戸入りを果たした最後の使行、1764年における朝鮮通信使の製述官および書記の目に映った日本、日本人に対する日本意識は注目に値すると言えよう。
今回は、「蒹葭雅集図」という一点の絵巻に注目し、1764年の使行途中、この絵巻がどのように制作されていったのか、一連の過程を朝鮮側と日本側の記録を見比べながら考察し、そこから明らかになったことについての発表を試みた。その上で、朝鮮側の製述官や書記、大坂の蒹葭堂会との交遊を通して、国や役割、身分や言葉を超えた相互認識や同流意識がいかにして芽生えていったのかという過程にも注目した。
最終的には、このような1764年の製述官、書記の日本意識が、海を越えて朝鮮の実学者たちによる日本に対する認識に、どのような変化をもたらしたのか、今までの分析では見過ごされてきた要素を補いつつ、新たな光を当てる一助とするべく、考察、発表を行った。

1.海を渡り伝わった「蒹葭雅集図」
「蒹葭雅集図」は現在、韓国、国立中央博物館に所蔵され、大坂の文人、木村蒹葭堂が自身の筆で蒹葭堂会の詩会の場面を描いたものである。絵の横には、蒹葭堂会のメンバー7人がそれぞれに書いた漢詩や、僧侶の大典が書いた跋文も収録されている。この絵巻の制作を依頼したのは、1764年書記として朝鮮通信使に参加していた成(ソン)大中(デジュン)という人物である。大典の跋文からは、異国からきた文人との交遊のさまが窺える。そして、朝鮮に帰った成大中を通して、「蒹葭雅集図」を目にした朝鮮の実学者たちは、自身の著書の中で「蒹葭雅集図」や蒹葭堂会についての記録を残している。
その人々は朝鮮燕行使として中国に派遣された実学者であり、もともと日本に対する印象はさほど良いものではなかったと思われる。だが、彼らの記録を見てみると、1764年の製述官や書記と蒹葭堂会との交遊が、「蒹葭雅集図」などを通して、日本を訪れたことのない朝鮮の実学者の日本意識の再認識にまでも影響を及ぼしていたことが分かる。

2.1764年の朝鮮通信使と庶?文人
1764年製述官として派遣された南玉(ナンオク)と成(ソン)大中(デジュン)、元重擧(ウォンジュンゴ)、金(キム)仁(イン)謙(キョン)の三書記は、みな庶?(ソオル)(庶子)という身分であった。朝鮮社会において庶?は庶?禁錮法により、科挙に合格をしても良い職につけない、という身分的制約を強いられていた。更に、そのような身分的差別は代々と世襲化された。一方で、南玉や成大中のような、いわゆる「庶?文人」たちは、詩社を結成することで身分的、思想的、文学的な交遊を深めていった。代表的な詩社としては、南玉が活動していた「椒林派」と、成大中、元重擧などが中心となった「北学派」がある。いずれの詩社も朝鮮通信使と朝鮮燕行使に深い関わりを持ち、外国の文物や文化を取り入れていった。

3.使行録からみる交流と崔天宗殺人事件
南玉の記録によると、1764年の通信使の製述官や書記は500人以上の日本人と約1000首を超える詩文を交わしていたという。とりわけ、江戸に向かう以前、および帰路で滞在した大坂においては、6日間という短い期間中にもかかわらず約140人と唱和をしていたことが分かる。朝鮮側の使行録をみると、大坂におけるおびただしい唱和の場面が見出せる。また、南玉らに詩文を求めてきた日本人の中には必ずしも漢詩などに詳しい者ばかりではなく、「御利益」として異国人のものを手に入れようとした人々も存在していたことが明らかになっており、当時の日本人の「異国意識」を垣間見ることもできた。
同時に、南玉らは、蒹葭堂をはじめとする蒹葭堂会の一員たちに対する評価を使行録の中に残しているが、帰路の大坂では「蒹葭雅集図」の跋文を記した大典も加わり、筆談を通した両国文人同士の交遊を深めていったことがわかる。
特筆すべきこととして、朝鮮に向かって出航する予定であった1764年4月7日、朝鮮通信使の一員、崔天宗が日本人により殺害される、前代未聞の事件が発生したことが挙げられる。朝鮮通信使一行は事件真相の究明のため、29日間大坂に留まることになるが、犯人である對馬の訳官、鈴木伝蔵が処刑されるまで、南玉らの記録からは、蒹葭堂会についての記録はほとんど見当たらない。しかし、同時期の大典の記録によると、南玉らと蒹葭堂会との交遊が続いていたことが分かる。出入りが制限されていた南玉らの宿舎へ、僧侶である大典は出入りが可能であったのもあり、成大中は大典を通して、「蒹葭雅集図」を依頼するようになる。
興味深いことに、朝鮮に帰国する前日にようやく「蒹葭雅集図」を手にした南玉らの様子や、別れの場面などが詳しく書かれた大典の記録からは、互いが正に「朋友之会」の精神で交わっていたことが分かる。このような1764年の製述官や書記の視座からみる日本意識や両国文人同士の交遊は、日韓の歴史を考える上でも非常に重要であると言えるだろう。

【報告記事執筆者:鄭 敬珍(ジョン キヨンジン/法政大学大学院人文科学研究科国際日本学インスティテュート博士後期課程)】

左より:小林ふみ子氏(司会者)
左より:鄭 敬珍氏(報告者)

会場の様子

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