川田順造先生を偲んで 鈴村裕輔

川田順造先生を偲んで

鈴村裕輔
(名城大学外国語学部准教授/法政大学国際日本学研究所客員所員)

それまで著書や論文、あるいは新聞、雑誌などの記事を通して存じ上げていた川田順造先生に初めてお目にかかったのは、2010年10月31日から11月2日までフランスのアルザス欧州日本学研究所(CEEJA)で行われた国際日本学シンポジウム「日本のアイデンティティ--形成と反響--」でした。

アルザス・シンポの愛称で親しまれた一連の国際日本学シンポジウムに法政大学国際日本学研究所(HIJAS)の一員として初めて参加した私は、“Ishibashi Tanzan’s ‘Small Japan Policy’ and his notion of Japan in the interwar period”(石橋湛山の「小日本主義」と戦間期の日本に対する理解)と題して発表を行いました。この報告では石橋湛山が提起した、日本の海外領土を放棄するいわゆる「小日本政策」と、戦間期における石橋の日本観を検討しました。何とか発表を終えて質疑応答の時間になった際、おもむろに手を挙げて質問したのが川田先生でした。「あのね、あなたの発表はね」から始まった川田先生の質問の趣旨は、次の3点でした。

第一に私の発表が総論的で面白さがないこと、第二に石橋のいわゆる「小日本主義」を考える際には1871年から1873年にかけての岩倉使節団がベルギーやオランダのようなヨーロッパにおける小国の様子を実際に見分し、その成果が久米邦武の『米欧回覧実記』(1878年)にも明記されているのにその後政治家や知識人たちの注意を集めなかったという事実に注意する必要があること、そして第三に石橋やその他の論者が提起した小国論や小国主義と日本の近代史の関係については田中彰の『小国主義』(岩波書店、1999年)が詳細に検討しているため、同書の適切な理解が重要であること、でした。

2008年3月に大学院博士課程を修了し、研究の中心を博士論文で検討した清沢満之から石橋湛山に変えてから2年半が経っており、石橋湛山に関する主要な論考は大小を問わずおおむね目を通したつもりでいました。そのため、従来の石橋湛山研究では設定されてこなかった「戦間期」という時代に焦点を当てたことに報告の新規性があると考えて臨んだ場で、より巨視的に見れば石橋の議論そのものが明治初期の知見を戦間期という時代の状況に合わせて応用させたものである可能性があること、さらに他の類似の主張を念頭に置かなければ石橋の主張の独自性を証明できないという私の発表の不十分さを、川田先生は明快に指摘されたのです。

今から振り返れば川田先生の指摘が妥当であることは明らかでした。しかし、この時の私は発表への自負の方が川田先生の発言の真意への理解を上回ったこともあり、石橋湛山の研究における「戦間期」の重要さについて再度強調したのでした。私が自らの嘴の黄色さを自覚したのは帰国後に『米欧回覧実記』を読み直し、『小国主義』を手にした時でした。これ以降、川田先生から受けた「面白さがない」という点をいかにして克服するか、どのようにして石橋湛山の議論を他の論者の主張と相対化しつつ特徴づけてゆくかという課題を解決するかということが大きな目標となったのは言うまでもありません。

そして、幸運なことに2011年11月のアルザス・シンポにも参加できることになるとともに、川田先生も出席されるため、前年から少しでも成長し、よりよい研究を進めていることを知ってもらおうと、再び石橋湛山についての研究発表を行ったのでした。このときは「日本のアイデンティティを<象徴>するもの」という総合テーマに即して“Kokutai Is the Principle of Liberalism: Focusing on the Argument by Ishibashi Tanzan in the Pre-war Period”と題し、戦前期の日本において、政党政治の排除や軍部の政治介入の根拠とされた国体の概念について、明治維新の精神を「万機公論に決すべし」という五箇条の誓文に求め、「日本の国体は一党独裁ではなく民主政治にある」とした石橋湛山の主張を検討しました。このとき、質疑応答の際に川田先生からの質問がなかったため意外に思うとともに、昨年の話だからもう忘れていらっしゃるのかもしれないと考えていると、セッション終了後の休憩時間に川田先生が「あなたね、よくなったんじゃないの」と声をかけてくださいました。「よかった」ではなく「よくなった」というところに、川田先生も1年前の私の報告を覚えていてくださり、その対比のうえで評価されたことが分かり、大変嬉しく思われました。それとともに、川田先生の率直な指摘があったからこそ自らの石橋湛山研究の内容を向上させることができたのだと思い、その旨をお伝えしました。

その後、HIJASで論文誌『国際日本学』やアルザス・シンポの成果報告も収録した国際日本学研究叢書の編集を担当したこともあり、川田先生に論文の寄稿をお願いする機会が増え、以前に比べて交流の場面も多くなりました。そうした中で、「鈴村さんに渡してください」という一筆や伝言とともに、『富士山と三味線』(青土社、2014年)や『〈運ぶヒト〉の人類学』(岩波書店、2014年)などの新刊書や『日本を問い直す』(青土社、2010年)、『江戸=東京の下町から』(岩波書店、2011年)のような既刊書、さらにJapanese Review of Cultural Anthropologyに掲載された論考“Notes on the Drum Language of the Ancient Mossi Kingdoms (BurkinaFaso)”の抜き刷りを送ってくださるなど、私は新たな見識を広めるための重要な機会を得ることができました。また、奥様をご紹介いただいたこともありました。仲睦まじいお二人の姿を目にして「素敵ですね」と感想を伝えると、ご夫婦で同時に微笑まれたのも、今では懐かしい出来事です。

2019年4月に現在の所属先に着任したこともあり、川田先生とのやり取りはHIJASに関連する研究会でお目にかかったり季節のご挨拶をする程度になってしまいました。ただ、2023年にこれまでの石橋湛山研究の成果の一端をまとめた『政治家 石橋湛山』(中央公論新社)を刊行することができたのは、石橋湛山の研究には様々な視点があるということを気づかせてくれた川田先生の存在が不可欠であり、お手元に一冊を贈呈できたことは、これまで受けた様々なご恩へのささやかな御礼でした。

私の仕事場の机の抽斗の一つには、以前川田先生が送ってくださったUSBメモリが入っています。「あなたにね、差し上げますから。どうぞ」と数篇のご論考のPDFデータが保存されているUSBメモリをいただいたときに各論文を出力し、それ以来抽斗の中に保管しているものです。思いがけない形で頂戴したUSBメモリを見ると、あの独特の柔らかさと伸びやかさを備えた川田先生の声が蘇ります。そうだ、川田先生は人類における声の重要さを生涯をかけて考究されたのだったと、生前のお姿が目の前に浮かぶのです。


アルザスシンポジウム討議の様子(2010.10.31-11.2)
[中央] 川田先生

アルザスシンポジウム集合写真(2011.11.4-6)
[最前列中央] 川田先生