【開催報告】法政大学国際日本学研究所主催 「トランスナショナルな日本」研究会(5) 「「空気」の政治とトランスナショナリティ」(2025年1月16日(木))2025/02/20
【開催報告】
「トランスナショナルな日本」研究会(5)
「空気」の政治とトランスナショナリティ
Politics of “Kuki” and Transnationality
■日時:2025年1月16日(木) 17:30~19:30
■会場:法政大学市ヶ谷キャンパス 新見附校舎3階 A305教室 【対面式で開催】
■主催:法政大学国際日本学研究所
■報告者:
クリストフ・トゥニ(立命館大学)
髙田 圭(法政大学)
法政大学国際日本学研究所では「トランスナショナルな日本研究」というシリーズで公開研究会を開催している。第5回目となる今回は「『空気』の政治とトランスナショナリティ」と題して日本的なコミュニケーションとも言われる「空気」について議論した。「空気」とは何か?それは「良いもの」なのか、「悪いもの」なのか?多様性が高まり、トランスナショナルな状況が進展するなか「空気」に変わるコミュニケーションはあり得るのか、こうした問いをめぐって髙田圭とクリストフ・トゥニによる報告とその後討論を通じて様々なアイデアが投げかけられた。
最初の報告者である髙田圭(法政大学)は「『空気』をめぐる『空気』の変化」と題して文化社会学の視点から過去20年の「空気」イメージの変遷に追った。1977年に出版された山本七平の『空気の研究』が示すと通り「空気」という言葉は、以前から日本社会で使われていた。ただし「空気」を主題とする書籍を見てみると、日本社会の中で「空気」的コミュニケーションに対する注目が高まったのは2000年代に入ってからである。「空気」に関する出版物は、2004年から2010年の第一期、2011年から2017年の第二期、2018年から2024年の第三期に分けられる。報告では、それら書籍の記事数と内容分析、また執筆者の属性等の分析をおこない、特に第一期から第三期にかけての「空気」をめぐる論調に大きな変化が見られたことが示された。それは「空気」的コミュニケーションがポジティブなものからネガティブなものへと大きく変容したことである。こうした「空気」の意味づけの変化は移行期である第二期に生じた様々な社会的出来事、例えば東日本大震災、(ニューロ)ダイバーシティへの注目、政治における「忖度」の問題、「働き方改革」、パンデミック等の影響があったと論じられた。
続いてクリストフ・トゥニ氏(立命館大学)による報告では、「空気」を考えるにあたってヒントとなる様々なアイデアが出された。まず、「空気」には異なる種類があるという指摘から、都市の「空気」と地方の「空気」の違いについて、見田宗介の議論を援用しつつ1968年の永山則夫の事件と1997年の酒鬼薔薇聖斗の事件を対比させながら論じられた。また「空気は世間が流動化したもの」という鴻上尚史の議論を参照しながら「空気」と「世間」を封建制文化の残滓とする考えに疑問を投げかけた。それは「空気」は近代化や理性によって乗り越えられるものという直線的なものではなく、繰り返し呼び戻される非時代的(エルンスト・ブロッホ)なものとして捉えられるべきだという主張であった。また近年の「空気」コミュニケーションの特徴としてのKYファシズムに触れつつお笑い文化が持つ空気の醸成作用についても言及された。そして最後に是枝裕和監督の映画「空気人形」の紹介を通じて「空気」は完全に否定的なものではなく「空っぽ」であるからこそ「空気」を通じたつながりが生まれるのではないかというその可能性についての訴えが展開された。
これらの報告を踏まえて参加者との討論をおこなった。「空気」は、日本語話者にとって避け難いコミュニケーション作法であり、フロアからも多くの質問・コメントが投げかけられた。例えば「なぜ2000年代から『空気』に関する議論が盛り上がったのか」という問いに対して髙田は、「空気」が高度成長期の日本型企業文化の基本的コミュニケーションであるとし、2000年代以降日本社会が高度成長モデルからの移行を進める中で、それまで支配的であった「空気」的コミュニケーションが危機を迎えたからこそ、逆説的に「空気」への注目が集まったという仮説を提示した。また、研究会には非日本語ネイティブも多く参加しており、トランスナショナルな状況における「空気」的コミュニケーションの問題性についての議論も展開された。同質的でハイコンテクストなコミュニケーション作法である「空気」から非日本語ネイティブは排除されてしまうという問題に対して「『空気』の民主化」というのは原理的に可能なのかという問題が論じられた。ただし、「空気」は必ずしも非日本語ネイティブの問題だけではないという問題提起も出された。横山泰子氏(法政大学)は、日本人の大学生と接していても彼(女)らの多くが「空気」の呪縛に苦しんでいると指摘した。その苦悩は「空気」を読むことへの圧力によるものであると同時に、「空気」コミュニケーションに代わる別のあり方が分からないというより悩ましい問題があるという。
こうしたディスカッションからは改めて「空気」が現代の日本社会を考察するにあたって鍵となる概念であることが感じられた。今回はあえて「空気」とは何かという定義づけは避けて「空気」の多様な論じられ方をテーマにした。解釈の多様性は「空気」という言葉の魅力ではあるものの、その問題の真髄に迫っていくには、やはり「空気」をどの射程で取るのかという汎用性、「良いか」「悪いか」という規範性、「日本的か」「普遍的か」といった文化性等の問題について考察を深めていく必要があるだろう。
髙田圭(法政大学国際日本学研究所専任所員・准教授)