【開催報告】法政大学国際日本学研究所公開研究会「トランスナショナルな日本」(3) 「石橋湛山とトランスナショナリズム」2023年12月15日(金)2024/01/26

開催報告

法政大学国際日本学研究所公開研究会「トランスナショナルな日本」(3)
「石橋湛山とトランスナショナリズム」


去る2023年12月15日(金)、法政大学国際日本学研究所公開研究会「トランスナショナルな日本」(3)において、「石橋湛山とトランスナショナリズム」と題して講演した。会場は法政大学市ヶ谷キャンパス大内山校舎Y506教室であった。
講演の概要は以下の通りであった。

今回の講演では、最初に議論の前提として、トランスナショナリズムに「ナショナリズム(nationalism)を越える(trans)主義・主張」としての「トランスナショナリズム(Trans-Nationalism)」と、「トランスナショナル(transnational)な主義・主張(ism)」としての「トランスナショナリズム(Transnational-ism)」の二つのあり方があることを確認した。そのうえで、トランスナショナリズムを「人、モノ、情報、想像力の主権国家を越えた拡張と移動」と定義し、この定義に基づいて石橋湛山(1884-1973)の議論にトランスナショナリズムに関連する観点が含まれるかを検討した。

石橋湛山の議論に対しては、植民地放棄論とも称される「小日本主義」を提起し、日本の領土拡張主義や武力に裏付けされた植民地主義を批判したと理解されている。現在、石橋の「小日本主義」は戦前から戦後にかけての日本のあり方と比較することで、あるべき日本の姿を提起していたと高く評価される。しかし、同時代の人々からは必ずしも支持されず、当局者からは「日本が中国に有する権益を放棄すべきだという淡白な意見を言う」と批評されることもあった。

それでは、石橋湛山の議論の枠組みはどのようなものだったか。石橋の最大の目的は、日本の国家としの利益を極大化することであった。そして、主語はあくまで日本であり、日本の利害得失に即して議論がなされた。「小日本主義」も、植民地支配を受ける人々への同情の念を示しつつも、それ以上に植民地を放棄することが日本にとって植民地を維持する以上に大きな利益をもたらすという視点で議論がなされている。例えば、「小日本主義」に関する石橋の代表的な論説である「一切を棄つるの覚悟」(1921年)及び「大日本主義の幻想」(1921年)では、日本が植民地を放棄し、その独立を実現させれば、列強の支配下にある植民地も必ずや宗主国に対して日本と同じ態度をとることを前提とし、もし英米といった国々が植民地の独立運動を抑圧するなら、日本はそのような虐げられる人々の盟主として、列強の驕慢さをくじく戦いをすべきであり、その戦いは、全世界から支持されるだろうと主張する。こうした「小日本主義」の議論は具体的で明快な提言であり、植民地問題において道徳的観点を強調するという特徴を持つ。しかし、日本側の視点にのみ立脚し相手が置かれた状況は等閑視している。

このような「小日本主義」の議論の構造に基づくと、石橋湛山とナショナリズムの関連が明らかになる。すなわち、「小日本主義」はあくまで日本の利害得失を最優先する考えに立脚するものであり、石橋湛山の議論は自国中心の立場(=ナショナリズム)の枠の中に留まることが分かる。そのため、国際関係の分析において、しばしば日本側の事情のみが取り上げられ、相手側の状況やその他の国の情勢については、日本が植民地を放棄した際の他国の対応が想定されないなど、十分な注意が払われていない。しかし、「人、モノ、情報、想像力の主権国家を越えた拡張と移動」というトランスナショナリズムの定義に立ち返ると、ナショナリズムを基調とする石橋の議論にトランスナショナリズムの萌芽となりうる観点が含まれることが見出される。すなわち、石橋湛山は、日本の国家の利益の最大化を追求した結果、当時の国際社会における最大の利益と思われた植民地を放棄するという、「淡白」な議論(=ナショナリズムを乗り越える議論)を行うことになった。さらに、植民地の放棄がもたらす道徳的な側面を提起することで、日本一国の利益が日本の自己評価だけでなく他国による日本の評価をも高める点を強調している。

ところで、道徳そのものは自らのうちに留まる、静的な、「閉じた」価値である。しかし、植民地の放棄とは、自らの国境を開き、自己の領土の保全という主権国家が本能的に求める態度を乗り越える「開かれた」行為となる。従って、「閉じた」価値としての道徳は「開かれた」行為としての植民地の放棄に附随する現象として、動的な性格を得ることになる。そして、石橋湛山は戦前から戦後にかけて、一貫して分断的な力としてのイデオロギーの相違による対立を批判している。具体的には、イデオロギーの違いに由来する相克において、対立の当事者はいずれも自らの尺度で相手の行動を測るために相手の実際の姿を把握できず、譲歩の機会を奪うとし、国家同士がイデオロギーの違いによって対立する場合、最終的には相手を征服し、滅ぼすことがなければ事態は終息しないとも指摘しているのである。
もちろん、石橋湛山の議論はリベラリズムと称されることはあっても、ナショナリズムとして捉えられることは決して多くない。そして、ナショナリズムの議論として考えられる機会が限られる以上、トランスナショナリズムについての視点からの分析は皆無に近い。それだけに、今後、「リベラリスト・石橋湛山」を超え、「ナショナリスト・石橋湛山」さらには「トランスナショナリスト・石橋湛山」についての議論が行われることで、石橋湛山研究だけでなくトランスナショナリズムの研究の一層の充実が期待される。

【執筆者:鈴村裕輔(名城大学外国語学部准教授,法政大学国際日本学研究所客員所員)】


鈴村裕輔氏(講演者)

鈴村裕輔氏:田中優子氏(コメンテーター)

鈴村裕輔氏:髙田圭氏(司会)

会場の様子

お知らせ一覧へ戻る