【開催報告】国際日本学研究所主催 新しい「国際日本学」を目指して(8)公開研究会「心とはいかなるものか?-古代日本人の形而上学的思想-」(2020年1月28日)2020/02/14

法政大学国際日本学研究所主催
新しい「国際日本学」を目指して(8)公開研究会

「心とはいかなるものか?-古代日本人の形而上学的思想-」

■日時  2020年1月28日(火)17:00~19:00
■会場  法政大学市ケ谷キャンパス ボアソナード・タワー26階 A会議室
■報告者 ツベタナ・クリステワ(法政大学国際日本学研究所客員所員・国際基督教大学教授)
■司会  小口 雅史(法政大学国際日本学研究所長・文学部教授)

【開催報告】

2020年1月28日(火)、法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナード・タワー26階A会議室において、法政大学国際日本学研究所の第8回「新しい国際日本学を目指して」が開催された。

今回はツベタナ・クリステワ氏(国際基督教大学)を招き、「「心とはいかなるものか?」-古代日本人の形而上学的思想-」と題して行われた。司会は小口雅史氏(法政大学)であった。

ツベタナ・クリステワ氏はブルガリア出身で、ソフィア大学東洋語・東洋文化センター日本学科教授などを経て、現在は国際基督教大学教授を務めている。ブルガリアでは『枕草子』や太宰治の『斜陽』の翻訳を行い、日本語でも『心づくしの日本語-和歌でよむ古代の思想』(筑摩書房、2011年)などの著作を上梓するなど、クリステワ氏は王朝文学を基軸として文学を通した日本人の心性の研究などに精力的に取り組んでいる。

今回の報告の概要は以下の通りであった。

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日本では、『竹取物語』は「子どもが読む物語」と考えられている。確かに、「美しきことかぎりなし」とされたかぐや姫をめぐる物語はおとぎ話のようである。また日本の古語の「美し」には『枕草子』「うつくしきもの」という用例を根拠に「かわいい」という意味があるともされてきた。しかし、「三寸ばかり」の子に対して翁が敬語を使っているのは何故であろうか。もし、単にかわいらしいだけなら、敬語を使わないのではないか。むしろ、『竹取物語』は日本人が初めてまとめた「生と死の理論書」と言えるだろう。

どの文化においても、どの時代においても、人間は美意識を持っているが、古代日本人にとって美意識は主要な認知手段だった。20世紀末にバイオフォトン研究に関わる日本人研究者が、竹が発光することを証明した研究を発表している。そして、『竹取物語』が書かれた10世紀頃の人々は、現に光り輝く竹を目にしており、未知の事象を見たために、「美しきこと限りなし」と表現した可能性がある。

また、生死論としての『竹取物語』を考える際に重要なのは、本来かぐや姫は「心」を持っておらず、月に戻る場面において月の住人と地球の住人との対比を通してかぐや姫の「心」の問題が焦点化されるということである。すなわち、月の住民は若く、美しく、年を取らない、「不老不死の理想の姿」であるのに対し、地球の住民は年老い、醜く、やがて死ぬ存在として描かれる。そして、永遠の命の持ち主であるかぐや姫は、月に戻る場面で羽衣と不死の薬をもたらした月の住民に対して「月の住人には心が分からない」と述べる。かぐや姫の指摘を通して明らかになるのは、地球の住人にあって月の住人にないのは「心」であり、「永遠の命」よりも「心」を重視しようとすることで、かぐや姫は「心」により重要な価値を与えようとしたということである。これに加えて、月からの使者がかぐや姫にもたらした羽衣は、「記憶を消す」という機能を持っていた。『竹取物語』が描くのは、「人が死ぬのは記憶と心を持つ」ということであり、かぐや姫が「永遠の美」として描かれるのは、かぐや姫が有限の命を持った人ではないからである。換言すれば、「かぐや姫の不在」とは「失われたことによって存在を意識する」ということであり、日本文化は「失われた存在」としての「永遠の美」を求めると言えるである。

ところで、日本の伝統的な文化を構成する三要素は「心」、「自然」、「美」である。ミハイル・ロトマンは文化の主導的タイプを「文法志向」の文化と「テクスト志向」の文化に区分する。そして、「文法志向」の文化で最も活発な分野は「学問」であり、「テクスト志向」の文化では「詩歌」が最も活発である。日本における代表的な詩歌である和歌は、音節言語としての日本語そのものであるとともに、文学の一つの分野であるばかりではなく、教養を持っている人々にとってのメディアであった。確かに、文化は教養を持つ人たちが発展させるかもしれないものの、人々が属する社会集団の全ての構成員の気持ち、思いをどれだけ反映し、表現しているかも重要である。そして、和歌は、庶民の思いを反映させているだけでなく、現在使われている日本語の源となっている。

それでは、何故、和歌はメディアとして人々に定着したのだろうか。和歌を可能にしたのは古代中国の哲学の影響が大きいと言える。古代中国は日本にとって文化の手本であり、中国の古典の解釈を通して日本の人々は自らの文化を発展させた。そして、『古今和歌集』の仮名序は、「全ての物事を支えるのは言葉である」という哲学理論を述べたものである。古代日本にはソクラテスやプラトン、孔子、老子などの哲学者はいなかったとはいえ、優れた歌人がいたのであり、和歌は哲学的な議論の場でもあった。例えば、和歌の主要な修辞である掛詞は、単なる同音異義語ではなく、思想的に用いられていた。また、和歌の内容を一般的な表現に置き換えると、古代日本の理論的な枠組みが分かる考えられるのであり、その意味で、古代において文学は単なる言語表現ではなく、理論的、体系的なものであったといえよう。カール・ユングは、「東洋人は同時性によって物事を考え、西洋人は因果性によって思考する」と指摘する。「偶然の一致」を重要な修辞法とする和歌は、ユングが指摘した同時性による思考を象徴していると考えられる。

古代の日本においては、ハレの場では仮名を使うことが出来なかった。そのため、日本の伝統的な文化を構成する三要素のうち、和歌においては「美」以外の「自然」と「心」が中心的に詠まれることになる。そして、和歌では「同じ心を持つこと」は不可能であるとされる。さらに、和歌の知識に基づいて書かれた『徒然草』において、兼好法師は「心は空であるから、色々なものを入れることが出来る」と指摘し、『院六首歌合』の中では、「善悪の区別や判断をするのは心である」、「心の形は何であろうか」といった哲学的な歌が詠まれ、一休や沢庵などの禅僧は「自然」と「心」の繋がりを受け入れるホリゾンタル思考に基づく歌を詠んでいる。このようなあり方から、日本の人々が和歌を通して「心」の概念化を図っていたと考えられる。

そして、最後に、現代人にとっての和歌の意味を考えたい。現代のわれわれは因果性に基づいて思考している。しかし、同時性に基づく思考が失われたのではない。理論物理学者のハイゼンベルクが理論物理学と東洋哲学との間の関連性を指摘したように、むしろ先端的な学問の中にも、和歌に代表される同時性に基づく思考が息づいていると言えるかも知れないのである。
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報告後の質疑応答においても、「現代人になりたければ現代文学を読み、未来人になりたければ古典文学を読むとよい」、「思想が文学を発展させるのではなく、文学こそは思想を発展させるメディアである」、「もじり文学は日本語だから可能」、「江戸時代においては和歌の解釈が中国の儒学の再解釈に応用された」など、クリステワ氏からは示唆に富む指摘がなされた。

古代文学の理解から出発し、思想や哲学、さらに物理学や言語論などの諸科学の知見を総合して日本の姿を描き出そうとした今回の報告は、「新しい国際日本学」の構築の面でも意義深いものであったと考えられた。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員所員、名城大学外国語学部准教授)】

(右)報告者:ツベタナ・クリステワ(国際基督教大学)
(左)司会:小口雅史(法政大学)

                                                                 (会場の様子)

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