【開催報告】国際日本学研究所公開研究会-新しい「国際日本学」を目指して(1)「17・18世紀カンボジアから日本への友好の書簡」(2018.7.11)2018/07/24
法政大学国際日本学研究所公開研究会
新しい「国際日本学」を目指して(1)
17・18世紀カンボジアから日本への友好の書簡
近藤重蔵編『外国関係書簡』より
開催報告
・日時 2018年7月11日(水)18時40分~
・会場 法政大学九段校舎3階第1会議室
・報告者 北川香子(法政大学国際日本学研究所所員・文学部准教授)
・司会者 小口雅史(法政大学国際日本学研究所所長・文学部教授)
私ども法政大学国際日本学研究所は、文部科学省21世紀COEプログラムに「日本発信の国際日本学の構築」が、文部科学省私立大学学術研究高度化推進事業(学術フロンティア推進事業)に「日本学の総合的研究」が同時に採択された2002年に設立されました。
これらのプログラムが終了した2007年からは、同じ学術フロンティア部門で、新プログラム「異文化研究としての日本学」が採択され、国際日本学の構築に引き続き取り組んできました。また文部科学省による新たな「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」(2010年度~2014年度)にも、「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討-〈日本意識〉の過去・現在・未来」が採択され、それらを中心に引き続き国際日本学確立のための研究活動を続けて参りました。
そうしたなかで、本研究所が初めて提唱した「国際日本学」という学問分野は国内外において一定の認知を得ることができたと考えます。近年、日本研究において古い歴史を誇る国際日本文化研究センターが中心になって設立された「国際日本研究」コンソーシアムにも当初から参画し、様々な形での研究連携によって新たな展開を目指すことも可能になってきました。
それらを踏まえて、本研究所では「国際日本学」研究を次の段階に進めるべく、新たな研究対象・分野・素材・人材などの開拓に乗り出すこととしました。当面、試行錯誤が続くと思いますが、一歩でも先へ進めることができればと考えています。
そうした企画の第一弾として、新しい分野の開拓を目指して「17・18世紀カンボジアから日本への友好の書簡-近藤重蔵編『外国関係書簡』より-」を開催いたしました。
以下がその要旨です。
【記事執筆:小口雅史(法政大学国際日本学研究所所長・文学部教授】
報告者 : 北川香子(法政大学)
司会者 : 小口雅史(法政大学)
会場の様子
【報告要旨】
この報告では、東京大学史料編纂所所蔵『外国関係書簡』に含まれる、6通のクメール語書簡の解読結果を紹介しました。
近藤重蔵が編纂した『外蕃書翰』にクメール語書簡の写しが含まれていることは、すでに一部の研究者のあいだでは知られており、東洋学者ノエル・ペリによってフランス語も作成されている。しかしながらペリの訳文は、往復書簡であることを考慮しなかったため、解釈に誤りがあり、再検討を必要とする。『外国関係書簡』の写しは、『外蕃書翰』の写しに比べてはるかに鮮明であり、ペリが解読できなかった部分を読み解くこともできる。
また日本の史料は、以下のような理由から、カンボジア史研究にとって極めて重要である。
1.現存最古のカンボジア王朝年代記は1796年に編纂されたもので、しかもタイ語訳文しか残存していない。17世紀末編纂の法典2種の存在も知られているが、現存する写本は植民地期(19世紀後半)に作成されたものである。一方『外国関係書簡』は、その奥付から、1797年に成立したことが判明する。とくに1742年のクメール語書簡は、近藤重蔵が長崎在任中(1795~97年)に、唐通事林家所蔵の原本から写し取ったもので、製作年代が明らかなうえに、極めて精巧な複製であり、刻文以外では現存最古のクメール語文書ということができる。さらに書簡が入れられていた象牙の筒の図が添えられていることが、この史料の価値を高めている。
2.水戸の徳川博物館が所蔵する『祇園精舎図』(1715年作成の写し、原本は17世紀前半作成とされる)は、現存最古のアンコール・ワットの図面である。
3.15世紀初頭を最後に、カンボジアは中国に朝貢していない。したがって、『華夷変態』、『外国関係書簡』、『外蕃書翰』、『外蕃通書』、『通航一覧』などの日本史料は、カンボジアの対外関係を知るうえで貴重な史料となる。また『華夷変態』からは、当時のカンボジアの国内情勢を知ることができる。
今回の『外国関係書簡』の解読結果からは、以下の点が明らかになった。
1.17世紀初頭のクメール語書簡は日本を「ニーポン」と呼び、18世紀中葉の書簡は「イープン」と呼んでいる。呼称が変化した理由は現時点では不明であるが、日本に関連する事柄を表記するために選択された用語からは、カンボジア側が日本の支配者を、カンボジアやシャムの王権と同等なものとして理解していたことがうかがえる。
2.漢文書簡が日本に対してへりくだった表現をとっているのに対し、クメール語書簡は王と王のあいだの「友好の書簡」として書かれている。なお「友好の書簡」はシャムから清朝に宛てたタイ語書簡にも共通し、東南アジア域内での外交のありかたをうかがわせる。
3.17世紀初頭の書簡では、日本から来航する船を「日本の王の書簡」を携えた1~2隻に限定するようカンボジア側が要求しており、日本から渡航する商人が朱印状を携帯すべきことが、双方が共有する原則であったことが判明する。また18世紀中葉の書簡は、「王の特別なお言葉」すなわち長崎入港のための信牌の発給を求めており、日本の貿易制度に対するカンボジア側の認識が確認できる。
4.クメール語書簡と漢文書簡の双方に、使節兼商人として往復した、中国人や日本人の名前が挙がっており、商人1人あるいは商船1隻あたり1通の書簡が発給される原則であったことが判明する。またクメール語書簡と漢文書簡の内容は必ずしも一致せず、日本側では理解できなかったはずのクメール語書簡にのみ書かれた内容が日本側に伝わっていることから、使節が口頭で伝達する情報が重要であったと考えられる。
5.岩生成一の『南洋日本町の研究』により、17世紀中葉のカンボジアに5人の「シャバンダール」すなわち港務長官がおり、うち1人は日本人で、2番目の高官の地位を示す「チャウ・ポニェ」のタイトルを持っていたことが判明している。『外国関係書簡』のクメール語書簡にカンボジア側の貿易外交担当官に関する記述はなかったが、漢文書簡には「把水」という官職らしきものが現れ、それが「招笨雅」すなわち「チャウ・ポニェ」のタイトルを名乗っていることが判明した。また縦書きの漢文書簡に押された朱印が正しい向きであったのに対し、横書きのクメール語書簡に押された朱印が横倒しになっていることから、貿易外交担当官がクメール語よりも漢文に親しみを持つ人物、すなわち東アジア文化圏の出自であった可能性が考えられる。
以上の報告に対する質疑応答の結果、近藤重蔵がカンボジアだけでなくベトナムなどの海外情報を積極的に収集した背景、18世紀の日本および東アジア、東南アジア情勢のなかにこの史料を位置づけて考えるべきであること、そのためには日本史、東アジア史、東南アジア史の研究者による共同研究が必須であること、国際日本学研究所がそのためのプラットフォームたりうることが確認された。
【記事執筆:北川香子(法政大学国際日本学研究所兼担所員・文学部准教授】