【開催報告】平成28年度科学研究費 第6回研究会(2017.3.6)2017/03/07
平成27年度科学研究費若手研究(B)採択
「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」
第6回研究会
日 時: 2017年3月6日(月)18時30分~20時30分
場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス九段校舎別館3階研究所会議室6
報 告: 河炅珍(東京大学)
司 会: 鈴村 裕輔(法政大学)
主 催: 鈴村裕輔(平成27-29年度科学研究費助成事業(若手研究(B))「戦前の民間組織による対外的情報発信と
主催:鈴村裕輔 その影響:英語版『東洋経済新報』を例として」[研究課題番号:15K16987]
後 援: 法政大学国際日本学研究所
河炅珍氏(東京大学)
2017年3月6日(月)、法政大学市ヶ谷キャンパス九段校舎別館3階研究所会議室6において、研究会「戦後「PR」の移植と受容をめぐって」が開催された。
本研究会は、平成27年度科学研究費若手研究(B)採択「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」(研究代表者:鈴村裕輔、研究課題番号:15K16987)による第6回目の研究会であり、講師に河炅珍氏(東京大学)を招き、法政大学国際日本学研究所の後援の下に実施された。
報告の概要は以下の通りであった。
戦後の日本におけるPublic Relations(PR)の歴史は、1946年月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が各都道府県にPublic Relations Organization(PRO)を設置するよう「サゼッション」を行ったことに始まる。GHQはPROを戦前の日本における隣保組織などを解体し、日本の民主化、あるいは行政の民主化を推進する装置として活用することを目指した。そのため、GHQは、PRの実務を担う「PRマン」に、「行政への理解」、「ジャーナリズムへの理解」、「占領政策への理解」、「英語への理解」の4つの理解を持つ人物を求めた。特に「PRマンに求める要素」としてGHQが「ジャーナリズムへの理解」を挙げたことは、ジャーナリズムがGHQの占領政策にとって重要であったこと、さらに米国本国ではジャーナリズムがPRの中心であったことに由来している。GHQの「サジッション」を受けた各都道府県は、GHQの権威の高さゆえにPROを設けたものの、PRが日本人になじみのない概念であったため、現場では混乱も生じた。「PR」の訳語として「広報」、「公報」、「弘報」、「広聴」、「公聴」、「情報」、「情訪」といった表現が用いられ、統一した表記とならなかったことは、PRに対する当時の日本人の理解のあり方を示唆する事例といえる。
各都道府県はPROを設けて種々の取り組みを行った。その中でも代表的なPRのひとつは埼玉県の事例である。すなわち、埼玉県は1948年4月から広報誌として『埼玉メガホン』(月2回刊、2000部発行)や『埼玉メガホン画報』(月1回刊、1300部)を発行するほか、「埼玉メガホン」と名付けた街頭宣伝車を市街に走らせていた。一方、GHQも民間情報教育局(CIE)が各都道府県の担当者に対してPRの普及を試み、1949年7月から10月にかけて「広報の原理と実際」(Principles and Techniques of Public Information in Japan)と題する講習会を開催した。この講習会には約140名のPR担当者が参加し、CIE情報部長のドナルド・ブラウンらCIE部員が中心となってPRの理論と実践を教授した。
行政PRから始まった戦後の日本のPRは、経済界や産業界におけるPRである経済PRへと発展した。戦後、経済界や産業界は労働組合結成の奨励や経営者の追放、財閥解体、あるいは証券民主化といったGHQの占領政策に対応する必要があり、その結果として経済PRが行われるようになった。経済PRの担い手は、(1)経営者団体・経済団体、(2)証券業界、(3)マスコミ・広告業界、の三者であった。これらの三者は、経営者団体・経済団体が証券業界に資金的に依存し、証券業界がマスコミ・広告業界に事業面で依存し、マスコミ・広告業界が経営者団体・経済団体を取引先とする、という相互依存の関係にあった。そのため、三者はともにPRを進めることになった。
経営者団体・経済団体のPRは、戦後の状況に対応した新しい経営者像と経営理念の創出が必要となったことを契機として発展した。すなわち、新しい経営者は「マネジメント」を理解し、専門的経営者になることを目指していた。また、経営者の対概念となる労働者との関係も、戦前の経営者を上位とし、労働者を下位とするあり方から、労働者の力が強まり、相対的に経営者の立場が弱まる状況へと変化していた。こうしたあり方を踏まえ、1955年には経済同友会が「社会的責任」や「企業の公器性」を掲げるとともに、米国のフランクリン・ルーズベルト政権によるニューディール政策を手本とする米国流のPRの導入を目指した。例えば、野田信夫や飯田清三らは米国流のPRのあり方を紹介するとともに、飯田は「米国で最も権威を持つのが世論である」と、世論に対するPRの重要性を指摘した。また、日本経営者団体連盟は労使関係の適正化のためにhuman relations(HR)を米国から直輸入することを目指し、1951年に訪米視察団を派遣した。その結果、社内報の作成が注目され、日経連PR研究会が発足している。確かに、戦前の日本でも社内報の作成はあったものの、HRに基づく取り組みは経営者に対する労働者の力が強まった戦後から始まった新しい試みであった。
証券業界は証券民主化を受けてPRの必要性に迫られた。野村証券の奥村綱雄は「証券民主化運動」をPR運動として捉え、PRの重要性を主張した。証券業界におけるPRは株主へのPR活動が中心であり、(1)株主や一般向けの教育、(2)経営者向けの教育、(3)専門雑誌の刊行、が主な取り組みであった。これら3つの取り組みの中で、経営者向けの教育でPR映画の製作が奨励されたことが特徴的であった。
一方、マスコミ・広告業界でのPRは電通の参入を契機に始まった。元来、電通はPRを主体的に行う必要がなかった。しかし、顧客である経営者団体・経済団体を取り巻く状況の変化に伴いPRに取り組むようになり、吉田秀雄はPRを手がかりに広告の拡大を図った。その結果、広告講習会や日本広告協会が誕生するとともに、電通の外国部長田中寛治郎がPR研究に着手し、GHQ民政局次長のチャールズ・ケーディスからThe Bird’s Eye View of Public RelationsとThe Blueprint of Public Relationsの2冊の書籍を入手し、研究を進めた。そして、田中はPRの根本理念を「社会の福祉に沿った経営の実現」、第二の理念を「PRを通した利益の追求」と考えるに至った。これに対し、田中の後を継いだ小谷重一は二つの理念のうち第二の理念である「PRを通した利益の追求」を重視し、PRからPR広告に傾斜した。すなわち、小谷はPRに広告と宣伝の概念を包摂させ、PR広告へと概念を拡張したのであった。
このように、行政PRと経済PRを概観すると、相違点と類似点が明らかとなる。まず、「PR導入の背景」としては両者とも占領下という状況が大きく作用していることが分かる。一方、行政PRは自治体と住民の関係、経済PRは労使関係、株主との関係という異なる対象がいることも明らかである。次に、「PR導入の経緯」は、行政PRがGHQによるPRO設置のサジッションであり、経済PRは労使問題や株主関係といった具体的な問題への対応であった。第3に「PRへの取り組みの性格」は行政PRが義務的、強制的であり、経済PRは積極的、自発的であった。さらに、「PRの理想・目的」について、行政PRはアメリカ民主主義を手本とする日本の民主化であり、経済PRがアメリカ資本主義やアメリカ企業を目指した日本企業の資本主義化であった。「PRの訳語」の点では、行政PRが「広報」や「弘報」といった日本語を用いる事例が多かったのに対し、経済PRではPRないしPublic Relationsというように、英語表記が多用された。「アメリカの表象」に関して、行政PRがGHQという超越的な存在を念頭に置いたのに比べ、経済PRではアメリカやアメリカ企業が思い描かれた。そして「PR運動の盛衰」としては、行政PRがGHQの占領期を頂点とし、1950年代半ばから衰退し、経済PRは1950年代から1960年代半ばまでPRが盛んに行われた。
以上、河氏による戦後の日本におけるPRの導入と展開のあり方の検討によって、戦前の英語版『東洋経済新報』による対外的な情報発信が持つ意味と戦後のPRとの相違を考えるために重要な視点が得られた。
【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】