【開催報告】平成27年度科学研究費若手研究(B)採択 「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」第2回研究会(2015.12.16)2015/12/21

平成27年度科学研究費若手研究(B)採択
「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」
第2回研究会

「政党内閣制という経験―自由の基盤としての機能と非常時暫定内閣」


日 時: 2015年12月16日(水)18時30分~20時30分

場 所: 法政大学九段校舎別館3階 研究所会議室6
報 告: 村井 良太(駒澤大学)
司 会: 鈴村 裕輔(法政大学)
主催:  鈴村裕輔(平成27-29年度科学研究費助成事業(若手研究(B))「戦前の民間組織に
主催:  鈴村裕輔 よる対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」
主催:  鈴村裕輔 [研究課題番号:15K16987]代表)
後援: 法政大学国際日本学研究所

2015年12月16日(水)、法政大学九段校舎別館3階 研究所会議室6において、研究会「政党内閣制という経験―自由の基盤としての機能と非常時暫定内閣」が開催された。本研究会は、平成27年度科学研究費若手研究(B)採択「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」(研究代表者:鈴村裕輔、研究課題番号:15K16987)による第2回目の研究会であり、講師に村井良太氏(駒澤大学)を招き、法政大学国際日本学研究所の後援の下に実施された。研究会の概要は以下の通りであった。戦前の日本の政党政治の理解としては、岡義武や升味準之輔らが代表する「結果的に政党内閣が連続したのであって、元老であった西園寺公望にとっては政党内閣でなくともよかった」という通説と、伊藤之雄や永井和らの「少なくとも政党内閣期における西園寺は政党内閣を望んでいた」という少数意見が存在する。また、近年、一党のみでは政権交代は不可能であるという事実に基づき、第二党の研究の重要性も高まっている。さらに、1916年に民本主義を提唱した吉野作造が後に「民本主義」という表現から「デモクラシー」へと移行したことも、1930年代における政党政治への見方を示唆するものである。政党政治を考える際にしばしば注目されるのが、1920年に成立した原敬内閣である。すなわち、原内閣は一般に「政党内閣制を否定する政党内閣だが、政党内閣制を準備した」と理解される。その際、見逃せないのが、立憲政友会に対する立憲同志会の存在であり、同志会の成立によって政友会に対抗する政党が現れ、複数政党制が実現した。さらに、政権を獲得するまでのいわゆる「苦節十年」によって党の指導者の求心力が高まることになり、政友会の代わりに政権を担当しうる政党としての陣容を整えることになった。

しかし、原敬の遭難後は、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾と官僚内閣が三代続いた。清浦内閣時に、第二次護憲運動が起き、護憲三派による加藤高明内閣が成立したものの、護憲運動を鎮静化させるための緊急避難的措置であり、加藤内閣が退陣すれば官僚内閣が成立する可能性が高かった。ただ、加藤が三派内の融和を図り、貴族院への対策も怠らなかったため、首相臨時代理を務めた若槻礼次郎が組閣することになった。さらに、若槻内閣後に成立した田中義一内閣は、一般的には「陸軍出身者による内閣」と理解されがちではあるものの、実際には首相を選定する際に「憲政の常道」により反対党の総裁として首班となっていることは注目に値する。何故なら、1920年代後半には政権党が国政を担う力を失うと反対党が組閣するというあり方が「憲政常道」として首相選定者の中で定着していたからである。それとともに、山県有朋を継いだ田中が軍服を脱いで政党に入り組閣したことは、1920年代後半における政党の強さの表れであるといえる。なお、田中は昭和天皇の信任を失うことで退陣したたため、「昭和天皇は立憲君主か」という点が問題にされる場合がある。その際、西園寺が代表する「政党に全てを任せる」という全権委任型の立憲君主制と、昭和天皇や牧野伸顕のように、政党に至らない点があれ欠点を補う政党政治補完型があり、後者はイギリス流の立憲君主制でもある点に注意したい。

田中内閣を継いだ浜口雄幸内閣は、政党政治の力強さに対する女性や軍の理解がどのようなものであったかを示している。すなわち、市川房枝ら婦人運動家は婦人参政権問題について、政党政治の継続を前提に、今後より良い法案が成立するという見通しを示しており、軍による三月事件も、政党政治が国民の支持を得ていることからクーデターを行うことを躊躇したのである。浜口の遭難後に若槻、犬養毅が政権を担当するものの、五・十五事件によって犬養内閣は退陣する。五・十五事件後、重臣や海軍軍人といった宮中官僚の主導によって斎藤実内閣が成立したことは、政党政治の崩壊として理解されることがある。だが、斎藤内閣は非常時の暫定政権であり、情勢が安定すれば政党が再び政権を担当するというのが、当時の認識であった。しかしながら、斎藤、岡田啓介と二代続けて軍人内閣が続き、しかも政党への政権の返還を前提とした斎藤内閣と、暫定色が後退した岡田内閣という相違、さらに1936年に二・二六事件が起きることで、政党内閣への回帰は不可能となった。さらに、岡田内閣を広田弘毅が継ぐ際、「広田はロシアに強い」といった理由で選定されており、首相の選定の過程も不透明化することとなった。

以上のように、1920年代から1930年代にかけて、政党政治は模索から成立、そして崩壊の過程を歩んだ。そして、政党政治の崩壊によって戦前の日本から失われたのは、(1)二大政党による国政の支配、(2)首相選定の透明性、(3)内閣中心の責任政治、(4)社会改良への漸進的な取り組み、(5)ヴェルサイユ=ワシントン体制の政治的基盤と国際的人脈、(6)社会の基礎的な価値や構成としての自由主義、であった。これらの失われた要素は戦後のGHQの占領政策の中で「復活」し、あるいは「強化」されることになったのであった。

以上の村井氏の報告により、英語版『東洋経済新報』が創刊された1934年前後の日本の政治の状況と課題が明らかにされ、今後の研究の推進に有益な知見が得られた。また、今回も研究者以外にも市民の参加があり、広く市民に開放された研究会となったことを付言する。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学)】

 

20151216kenkyu

報告:村井良太氏(駒澤大学)

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