第4回勉強会 『トルコにおける日本学 』(2014.3.22)
「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(4)「〈日本意識〉の三角測量−未来へ」
2013年度 第4回勉強会
トルコにおける日本学
- 日 時 2014年3月22日(土)16:30〜19:30
- 会 場 法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
- 講演者 エルダル・キュチュキュヤルチュン氏 (ボアジチ大学・アジア学研究所助教)・
- 講演者 オウズ・バイカラ氏(ボアジチ大学翻訳・通訳学科准教授)
- 司 会 小口 雅史 (法政大学国際日本学研究所所員・文学部教授)
1.トルコにおける日本学:歴史・現状と未来
報告者 エルダル・キュチュキュヤルチュン氏 (ボアジチ大学・アジア学研究所助教)
広い意味で見てトルコ人が日本を意識した最古の書物は11世紀のマハムード・カシュガーリの「突厥語辞典」である。さらに17世紀のオスマントルコの博学者キャ−ティプ・チェレビーの「ジハンヌマー」(世界の鏡)の中にも「ヤポンヤ」が出てくる。したがってその本が印刷技術をオスマン帝国に紹介したとされるイブラヒム・ムテフェリカの手によって1732年に初出版され、中に載っていた「ジェゼィレイ・ヤポンヤ」(日本列島)もイスラム世界における初の日本地図になる。
両国の関係の始まりはオスマン・トルコ帝国の末期である19世紀末に当たる。そしてトルコにおける日本の積極的なイメージの成立にインパクト与えた事件が二つほどあったと言える。それらは次のことである。
1.和歌山県串本町で起きたエルトゥールル号災害事件(1890年)
2.日露戦争(1904-05年)
日本を話題とした最初の本である「日本の過去・現在と将来」(フランス語から翻訳)がエルトゥールル号事件直後の1891年に出版されたのはけして偶然ではなく災害事件に関するニュースの影響が大きかった。その後を追うように次々と新しい本が出るようになる。名作家ピエール・ロティの「日本旅行記」を始めにフランス語からの翻訳が多かったこの時期は日本が持つロマンチックなイメージの元でもある。
1904年に突発した日露戦争で当時共通の敵だと思われたロシアに対して日本が勝つと誰も予測できなかったこの展開にトルコ国民も感動し日本を大国として見るようになった。オスマン帝国が派遣した二人の幹部がこの戦争のいきさつを報告し日本軍を始めに日本に関して身近な情報を与える事になった。後に出版されたこの報告書は軍事的な関心の元である。
軍事大国日本のイメージは共和国時代の初期から20世紀松にかけて段々と経済発展の「ロールモデル日本」のイメージに変化する。したがって、「日本人の本当の力〜 日本はなぜそしてどのようにして発展したか」(1942)、「経済発展の道への例としての日本とトルコ」(1971)、「日本の奇跡と我々」(1982)、「これぞ日本のモデル」(1985)、「経済経済・発展・社会的 発展・企画論と日本の経済発展」(1988)、「総合商社〜海外発展のモデルとしての日本」(1993)などのようなタイトルが増える。
このテーマとほぼ平行した形でアブドゥルレシッド・イブラヒーム の「イスラム世界と日本におけるイスラム教」(1911)が保守的な議論者の間で人気の自立したジャンルになっていく。日本がイスラムの国になりえる夢をベースにしたこのジャンルはほとんど変化せずしつこく現在までも残っているのである。
ようやく2000年代から数多くの大学で日本語学科が開かれ、日本語のできる研究者が育ち、学術的研究の強い基盤が成立するようになった。
【記事執筆:エルダル・キュチュキュヤルチュン氏 (ボアジチ大学・アジア学研究所助教)】
2.トルコにおける日本文学の翻訳の歩み
報告者 オウズ・バイカラ氏(ボアジチ大学文理学部翻訳通訳学科准教授)
本報告では、1959に出版された「日本文学短編集」を初めに、日本文学からトルコ語に翻訳された作品をイスラエルの翻訳学者のItanaru Even-Zoharの多元システム論(polysystem theory)によって検討した。目的は1959-2005年の間にトルコで出版された日本文学の動態の探求であった。日本文学からトルコ語に翻訳の要因を調査および分析し、そして次の結論に達した。
1.研究の過程でこの期間内に翻訳された45冊作品の作家、作品、翻訳者と出版社前を研究したがやはり翻訳数が少なかったことが明らかとなった。それは、日本からの翻訳文学は常にトルコ文学の多元システムによって歴史的に周辺的であったことを証明した。更にどの時点で見ても、この翻訳文学が決してトルコに新しい「ファッショナブルなレパートリー」をたらした主要なチャンネルではなかった(Even-Zohar)。その結果日本文学の翻訳はトルコ文学多元システムの中でいつも周辺的であった。これらの要因の横に、この二つの言語の間に適切な翻訳者の不足やその他の商業、文化、言語的および他の政治的な理由が、この現象を生んだのである。
2.この研究はまた、国際翻訳システムで、言語の中心性と、その言語から作られた翻訳の割合との間に直接的な関係があることを示唆した。日本語とトルコ語などのような周辺的な言語から翻訳する場合は英語、フランス語、ドイツ語などのようなもっと中心的な言語を経由して通信する必要があることが分かった。
3.出版社とのインタビューはトルコにおける日本文学からの作品選択が西洋の好みや、関心に沿って行われたことを示した。ノーベル賞は毎年、一人の作者を正典化するが、彼の作品は英語で出版されなければならない。これは英語が言語として、翻訳活動における普遍的な優位性を示している。同様に、ほぼ2005年までトルコ語に訳された日本の文学作品のすべては英語からの翻訳である。私がインタビューした出版社の一つは、指摘したように翻訳の決定が、「国際ブックフェア」で、商業の雰囲気に応じて作られているものである。そして日本文学はこの規則の例外ではありません。そして出版社は、常に英語が承認した作品の翻訳をすることが好ましい。
4.最近日本語学の興味や研究者が増えてきて2005年から2013年の間に日本文学作品の直訳が盛んになったが直訳できる翻訳者は一握りの専門家であり、まだまだ三人か四人に過ぎない状態である。
【記事執筆:オウズ・バイカラ氏(ボアジチ大学翻訳・通訳学科准教授)】
報告者:エルダル・キュチュキュヤルチュン氏 (ボアジチ大学・アジア学研究所助教) |
報告者:オウズ・バイカラ氏(ボアジチ大学文理学部翻訳通訳学科准教授) |
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