第1回研究会『「国家ノ生存競争」と「衆民政」』(2012.6.30)
「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」
2012年度 第1回研究会
「国家ノ生存競争」と「衆民政」
−小野塚喜平次の対外観と日本−
報 告 春名 展生 (中京大学国際教養学部非常勤講師、同社会科学研究所特任研究員)
日 時 2012年6月30日(土) 16:00 – 18:00
会 場 法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
司 会 田中 優子 (法政大学社会学部教授)
司会:田中 優子 教授
講師:春名 展生 氏
「国家ノ生存競争」と「衆民政」−小野塚喜平次の対外観と日本
吉野作造が「第一の恩人」と呼ぶ小野塚喜平次は、「衆民主義」の首唱者として、また「日本政治学史の源流」(田口富久治『日本政治学史の源流』)に位置する人物として知られる。しかし看過されがちなのは、小野塚が国際関係を学問的な考察の射程に取り込んだ点である。それは「国家学より政治学の独立」(?山政道『日本における近代政治学の発達』)の一環をなすばかりか、「衆民政」を提唱する根拠にもなったと考えられる。本報告は、小野塚がどのように国際関係の制約と各国家の裁量を割り出したのかを探り、そこに一つの「日本意識」を見出す試みであった。
政府に早期の日露開戦を迫った「七博士」に加わった小野塚は、同志の戸水寛人らと同様に「過剰人口」のために「膨脹」を要する国として日本を描くが(「国家膨脹範囲ノ政治学的研究」)、このような発想には何か源泉が存在するのであろうか。そのように問うと、小野塚が人口増加と農業不振を原因として大量の移民をアメリカに送り出したドイツの例を詳述し、また同じ頃に出版した『政治学大綱』の中で「政治学参考書」としてラッツェル著『政治地理学』(Ratzel, Politische Geographie, 1897)を挙げているのは示唆に富む。人口に応じて拡縮する「生活圏」の概念を定礎した地理学者ラッツェルと同じく、小野塚は、マルサスの説を手がかりに「生存競争」の概念を編み出したダーウィンの生物学理論を人類に適用したのであろう。
進化論の受容をめぐっては、それを頼みに自由民権運動を排撃した加藤弘之の言説ばかりが注目されてきたが、その加藤が将来的な「宇内統一国」の成立を期待しつづけたように(たとえば『強者の権利の競争』)、そこから浮かび上がるのは進化を進歩と同一視したスペンサーの進化論である。それに引き比べ、社会の分野に持ち込まれたダーウィン進化論の展開については、これまで十分に顧みられていない。
ひとたび人口の増加に対応するために領土の拡張を試みる国が現れると、同じ条件にない国々をも巻き込んで「国家ノ生存競争」が誘発される。それに処するために小野塚は「外交政策ハ膨脹的タルベシ」と主張するが、「膨脹政策」を追求するには官民の一体が望まれるゆえ、「衆民的政策」の追求や、ひいては「衆民政」の確立を勧説するに至る。このような発想は、小野塚を含めて「七博士」の面々が関与した社会政策学会に共有された「帝国主義と社会政策」(桑田熊蔵「帝国主義と社会政策」、ただし桑田自身は同調せず)と通じる。小野塚の思想は一個人の特異な思いつきとしては片づけられまい。
このような苛烈な国際関係を前提に政治を説きながらも、小野塚自身は「国家競争力」の強化に特化した政治のあり方を「善政」とは考えず、そこから抜け出すために国際関係の転換を望んでいたふしがある。第一次大戦中にアメリカのウィルソン大統領が国際舞台に登場した際、小野塚は「国際的政治家」の構想に満腔の賛意を表するとともに、自らも「国際連盟ノ思潮ニ対シテ一層同情アル研究ヲ悉ス」(「戦後ノ国際連盟」)ために「国際政治学講座」の新設に動いた。
しかし大戦後の日本は失業、就職難、そして移民問題などにより、それまでになく「過剰人口」が強く意識された。1927年には内閣に「人口食糧問題調査会」が設置され、時代が下って満州国の承認に際しては、ときの陸軍次官が新国家は「国防上、資源上、人口問題上大なる貢献をなすに至る」(柳川平助「満蒙問題の再認識」)と論じている。つまり当時の日本では国際連盟を前提とした「国際政治」よりも「国家ノ生存競争」が国際関係の理論化として説得力を持ったであろう。とくに「十五年戦争」期に入ると、後者にまつわる小野塚の知見が実践に活きるようになる。
たとえば広田内閣で資源局長官に就任した松井春生は「小野塚先生の政治学」などが「後年私の「資源政策論」の骨子を成した」と戦後に回想している(「日本行政の回顧(その一)」)。おそらくラッツェルに触発されて1910年代より政治学の講義に取り入れられた「領土ノ政治的観察」を松井は指しているのであろう。また同じく小野塚の門弟で1920年代に『国際連盟政策論』を著した神川彦松は、満州事変後は「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」の構想を正当化する理論を発し続け、戦後間もなくに出版した『国際政治学概論』には「国際政治進化の自然的根本動力は、政治集団の人口の増加である」と書き記している。あたかも小野塚の出発点に回帰した観がある。小野塚が日露戦争の頃に提起した「国家ノ生存競争」と「膨脹政策」は、意外なまでに息の長い「対外意識」および「日本意識」であったとは言えまいか。
【記事執筆:春名 展生(中京大学国際教養学部非常勤講師・同社会科学研究所特任研究員)】