研究アプローチ④第2回勉強会(2010.10.28)

「古代アジア人におけるヒトとモノの動き−ヨーロッパ人によるアプローチ−」


 

  • 報告者:シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア(フランス国立高等研究院歴史学部教授)
  • 日時:2010年10月28日(木)18:30〜20:30
  • 会場:法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
  • 司会:小口 雅史(法政大学文学部教授)
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ヴェアシュア教授

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講演:ヴェアシュア教授(奥)

司会:小口雅史教授(左奥)安孫子所長・教授(左手前)

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会場の様子

古代日本と東アジア世界の関係を考えるとき、だれしも遣唐使のことを想起するであろう。私は学生時代の日本からの留学生との出会いで日本に興味を持つようになり、また、日本との貿易摩擦のまっただ中、EUの東京代表部で半年間、研修生とした日本に滞在していたが、それ以来、古代からの日本の外交の歴史に興味を持つことになった。それで1970年代にイナルコの大学院で、遣唐使のことを修士論文のテーマとして設定することになったわけであるが、当時、この問題については、克服すべき2つの論点があった。一つは、日本律令国家は中華帝国を摸倣したものであり日本と中国の関係を同じ土俵の上で理解しようとする一方で、朝鮮半島は日本の属国であり日本よりも下位のものとして扱おうとすること。もう一つは歴史研究においては遣唐使こそが外交問題の中心であり、他の側面、たとえば渤海や朝鮮諸国との交易・外交を二次的に扱うこと、である。
しかし私自身は日本の文化的環境や教育環境で育たなかったので、純粋に一から文字史料や画像資料をもとに東アジアの国際関係を見直すことができた。今回は遣唐使を中心に、それ以後の東アジアの国際交流を、16世紀までを視野に入れて検討しなおしてみる。

当時の研究水準では、近世初頭までの日本の対外貿易については、以下のようなことがよく言われていた。
遣唐使時代は、唐からは、当時のハイテク製品を持ち返る.たとえば螺鈿などは当時の最高級の技術であり、また中国製品だけではなくシルクロード経由のはるか西方の物産、錦や綾をもたらしている。そしてその技術を学んで織部を全国に派遣して、その織り方を教え、中央政府への貢ぎ物を作らせたのだ。こうして、当時の最新技術が日本全国へ普及することになった。ついで宋代になると、宋の商人が日本とのあいだを往復するという、遣唐使時代とは 逆の動きをみせるようになる。高級絹織物は引き続き輸入されたが、香薬や陶磁器も大量にもたらされるようになった。宋代の青磁は日本で高く評価され、中国産や東南アジア産の麝香・白檀などの香料は 公卿の需要が多く、お香合わせなどにさかんに用いられた。鎌倉時代には、建長寺船などの名目で「入唐船」が派遣された。泉州で沈没船の発掘がなされているが、輸入品の中心は宋銭であったことが知られている。12世紀以降、日本人が一番欲していたものが銭貨である.日本では皇朝十二銭以後、貨幣が作られていないからであり、この「外貨」が頼りであった。室町時代になると、勘合貿易と言われる明との貿易がさかんになる。倭寇対策が必要になったが、大規模な貿易であり、やはり大量の明銭が日本にもたらされた。これは朝貢貿易であったので、輸入する権利は幕府が独占している。明の陶磁器も上流階級で珍重され、茶会が盛んに催された。ただし茶釜は日本製である。これらの輸入品は、普通の商人は入手不可能で、室町将軍が自分の権威づけに利用し、北山文化・東山文化が栄えることになった。
これが当時の一般的な日本歴史上の貿易観である。ところがここまでの話に朝鮮がまったく出てこない。これは歴史学として正当な扱いであろうか。たしかに当時の研究者は中国以外にはあまり興味がなかったので、朝鮮は東アジアの一員でありながら、その研究がまったく遅れてしまっていて、これは大きな問題であると考える。

また上記の文脈では、「唐物」にばかり興味が集中していて、逆に日本から外に持ち出されたものの話がまったく出てこない。これは欧州人にとっては実に不思議なことである。現代でも欧州には日本車や日本製カメラがあふれている(欧州にもすばらしい自前の車やカメラがあるのになぜ欧州人は日本車を買うのか、このことも私が遣唐使の研究を始めたきっかけである)。古代でも日本が何を輸出したのにかに注目すべきである。
そこで最初に7世紀から16世紀までの間に、日本に来航した使節・商人・来寇・漂流者などの数と、日本から渡航した使節・商人・倭寇などの回数(量ではない)を、対象を朝鮮半島・中国・渤海とに分けて比較してみた。すると全体の数としては、12世紀までは日本への来航者が多く、13世紀以後は日本からの渡航者が多いことが明らかである。しかも対象別にみると8世紀までは朝鮮や渤海との往来の方が中国との往来をはるかにしのぐことがわかり、また15世紀以後においても朝鮮との往来の方が中国よりはるかに多い(ただし史料の性格や内容などによって、確率的に精度が高いのは8世紀と15世紀前半だけであることは注意する必要がある)。時代を古代に限定して、また往来者を使節団に限定してみても、その傾向は全く同じである(7世紀の新羅との使節往来は、朝鮮側に史料がなく『日本書紀』によって計算した)。このことだけをみても朝鮮との関係が日本にとってとても大きな意味を持っていたことがわかる。

それをふまえてあらためて日本と東アジア諸国との貿易内容を考え直してみた。まず朝鮮半島から日本に来るものについて。古代新羅からは蜂蜜や人参、あるいは山羊・驢馬・鸚鵡といった珍獣が注目される。渤海からは毛皮(豹と虎の毛皮、これは中継貿易)や人参、蜂蜜など。中世になると、朝鮮からの木版大蔵経が重要である。これは威信財としての役割が中心で、必ずしも宗教的意味をもつとは限らない。
さて問題の日本からの輸出品を考えてみる。中国への輸出品として注目できるものは、まず扇である。寧波経由で中国に輸出された。団扇は中国から日本に渡来したが、それを折りたためる便利な扇に変化させたのは日本人の知恵であって、中国で人気を博した。漆器も、正倉院宝物以来、日本に逸品があり、もともと中国渡来の技法であるが、螺鈿を用いた漆器は中国になく、日本で発達した技法である。渡宋僧奝然が中国に持参したものが有名であるが、11世紀になると高麗王への贈答品にもなる。また日本刀も忘れることはできない。例えば欧陽脩の詩の中に日本刀が登場する。室町時代になると、明銭を輸入するために日本刀をさかんに輸出した。明が数量を制限しなければならないほど大量であった。このころはさらに日本の屏風も中国で珍重された。中国には衝立て形式のものはあったが、扇同様、折りたためる形式にしたのは日本人の発明である。中国側から日本へ発注されることすらあった。和紙も中国で珍重された。製紙はやはり中国から学んだ技術であるが、それを、材料を始めとして独自に改良した。朝鮮からも和紙の技法を学びに来ている。
以上のように、紙も螺鈿も漆も、もとは中国から来たものであるが後に中国に輸出できるほどの独自の発展を日本で遂げた。刀ももとは朝鮮からもたらされたもので、鍛冶の技術も中国や朝鮮から学んだものであるが、やはり独自に発展させて中国に輸出するようになる。東アジアのものの動きは、単に遣唐使が日本に何をもたらしたかだけではなく、このように日本から何が外に出て行ったのかを抜きに語ることはできないのである。
欧州人の日本研究は、細かい分析と言うよりは、日本人よりも自由に広い視点から東アジア全体を捉え直せるところに意味があるように思う。今後こうした視点からさらに研究を深めていきたい。

【記事執筆:小口雅史(法政大学文学部教授)】