研究アプローチ③第7回東アジア文化研究会(2010.10.26)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」

研究アプローチ3「〈日本意識〉の現在−東アジアから」

2010年度 東アジア文化研究会特別講演会

(2010年度 第7回東アジア文化研究会)

「東アジアから見た朱舜水 -文明発展の役割とそのアイデンティティー -」


 

  • 報告者:徐 興慶(台湾大学日本語文学研究所 教授兼所長)
  • 日 時:2010年10月26日(火)18時30分〜20時30分
  • 場 所:法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
  • 司 会:王 敏(法政大学国際日本学研究所 教授)

徐興慶 教授

王 敏 教授

会場の様子

東アジアから見た朱舜水
文明発展の役割とそのアイデンティティー

一、注目される朱舜水研究
十七世紀の初期から西洋の大国、特に造船、航海技術がより進んだイギリスやオランダの勢力は東アジアの世界へ進出した。徳川幕府は西洋の侵入を恐れて、徐々にキリスト教の禁止や鎖国の政策を取るようになった。1853年に米国の黒船が浦賀港の来航によって、日本は近代化への道を促された。
一方、同じ時期の中国では、北方の満族が築いた清王朝は中国を統治するようになった。この「明清交替」という乱れた戦乱社会では、中国の知識人たちが長崎に渡航する風潮が見られ、徳川鎖国時代の日中文化交流は空前の発展を遂げた。浙江餘姚出の身朱舜水(1600−1682)は、この時代背景の中に日本を渡航し、徳川社会、特に水戸藩や加賀藩の儒学を普及し、日中文化交流に献身的な役割を果たした。江戸初期に長崎来航の明朝文化人は国家に対するアイデンティティーが強い、彼らは漢民族の誇りを持ち、満清族と対抗し続けた知識人なのである。本講演の焦点は(一)「日本乞師」活動をめぐる朱舜水のアイデンティティー、(二)経世致用の実学理論を広げ、「前期水戸学」に深い影響を与える朱舜水の東アジア文明発展の役割を論述する。

二、「日本乞師」活動をめぐる朱舜水のアイデンティティー
朱舜水は十七年間「海外経営」の間に七回も長崎に渡航したことが最も注目されている。なぜ彼は頻繁に長崎に渡航したか、さまざまな推測はあるが、軍事的物資の調達を目的とした三角貿易を営んだと考えられる。『朱舜水全集』によると、彼は舟山群島、ベトナム、長崎を行き来していた期間、ずっと満清政権に対する抵抗運動を行っていたことは紛れもない事実である。また、日本居留の目的について、朱舜水は「儒教を唱えるために日本に来たわけではない」というように、来航の目的は儒教の普及ではないと言明している。つまり、朱舜水は賓師として徳川光圀(1628〜1700)に招聘され、儒学を伝授しながら、実学思想を普及し、幕末の思想界にまで影響のある「舜水学」を花開したことは、全て予定外の結果といってもよい。
朱舜水は長崎に居住した約六年の間、福岡柳川藩の儒臣安東省庵(1622−1701)との交友が最も深かった。九州歴史料館柳川古文書館に所蔵する安東省庵宛ての朱舜水書簡の内容によると、朱舜水は明朝復興を図るため、日本の兵力を借りたい(乞師)願望をしばしば打ち明けている。南明政権(鄭氏一族)が徳川幕府に援助を求めたのは、朱舜水が長崎に移り住む以前のことなので、朱舜水の「日本乞師」は決して新しい発想ではない。しかし、彼は国家に忠節を尽し、大義名分を重んじる正義の士であって、満族の統治を受け入れることができず、「日本乞師」の一員になったのである。
この南明政権と朱舜水より一連の「日本乞師」行為は、鎖国体制下の徳川幕府の上層部を震撼させた。つまり、十七世紀中期の東アジアに生じた「明清交替」、「華夷變態」といった中華社会における秩序の再形成をめぐる政治の動きが日本側に波紋を及ぼした。

三、東アジア文明発展の役割を果たす朱舜水
朱舜水は「聖学の道」を語る際、二つの焦点にある。まず、聖学の道を普及すれば、功利、私慾ないし儒学各派の争い現象を切り抜けられ、禮、義、廉、恥の風習に変貌することができるという。次に聖学の道とは、誰もが知(自覚)と行(行動)ができることを望み、言行一致の誠実な社会に達せるものとして目指していかねばならないと主張している。言い換えれば、朱舜水がいう「聖学の道」は、修身を元にし、伝統を継承することもあれば、自分の思考で見極めていくものもあると、日本の儒教界に呼びかけようとした。
東アジア文化圏における明末清初と徳川初期の儒学世界の変遷を視野に入る場合は、朱舜水が主張する「民本政治を以て、理想な社会を造る」、「道徳を実践することによって、齊家、治国、平天下など社会的が役割を果たすこと」、「虚と実を弁明した上、政治そして天下国家に有益の行為をとること」、「人倫、道德政治を重んじ、実践を徹底的にすること」などの「経世致用」の学問は、江戸初期の儒学者に共感を得た側面が伺える。同時に実用主義そのものを如何に徳川社会に生かせるのかが喚起されるものであった。朱舜水は文化伝播者として、如何に文明発展の役割を果たすか、本講演でその意義を語った。

【報告記事:徐 興慶(台湾大学日本語文学研究所教授兼所長)】