第7回東アジア文化研究会「思想史研究における『知の伝達』とメディア―江戸思想を素材として―」(2008.10.10.)

学術フロンティア・サブプロジェクト2 異文化としての日本

2008年度第7回東アジア文化研究会
「思想史研究における『知の伝達』とメディア—江戸思想を素材として—」

報告者  辻本 雅史 氏 (京都大学大学院教育学研究科教授)

・日 時  2008年10月10日(金)18時30分〜20時30分
・場 所 法政大学市ケ谷キャンパス ボアソナード・タワー25階B会議室
・司 会  王 敏 (法政大学国際日本学研究所教授)

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従来の思想史研究の方法は、思想家の書いたテキストを読みながら、その考えに忠実に史料として、体系的思想の論理を再構成する方法であった。しかしそれは、思想家を使って自己を再構成しているだけに過ぎない。思想は、江戸時代においては本として印刷出版され、あるいは庶民に向かった語られたのである。思想史を、様々な媒体で外部に向けて出された「言説」として捉え、対話のなかで意味が変わってゆくそのダイナミズムを発見したい。そこで、思想史を「メディア史」として捉え直す方法が必要となる。その二つの方法を提示したい。

第一は、「東アジア思想史」の視点である。儒学思想は日本のものだけではなく、東アジアが共有する思想・知の基底である。その共有テキストをどう読むかが、それぞれの社会の問題に応える知であった。儒学思想を国単位で考えるのではなく、東アジアの共通性と地域性を明らかにし、時代による変化も考えなくてはならない。そこには、「日本思想(文化)」に回収しない思想史・文化史の可能性がある。

第二は「知の伝達メディア」という視点である。たとえば現代の「学校」も知のメディアである。江戸時代の知の伝達の現場には、「教育」と「思想伝達」とがあった。前者を「教育のメディア史」として構想し、後者を「思想のメディア史」として構想することができる。知の伝達には、「知の構成」段階、「知の形成」段階、そして「知の伝達」段階がある。江戸時代では漢文が知のメディアであり、漢文でものを考えていた。漢文は当時の国際言語であった。その漢籍の受容には、文字によって受け取る場合と、声で聞き読んで覚える場合とがある。江戸時代は文字使用を組み込んだ社会であった。印刷技術と出版社の登場によって文字情報の商品化と大量流通とが起こり、文化の構造的変化が起こった。これは「第一次メディア革命」と言うべきもので、江戸時代はメディア革命の時代だったのである。

しかし一方、江戸時代は「素読」の時代であった。とくに幼少時における教育には、声に出して読み覚える方法がとられた。これは「テキストの身体化」ということができる。素読においては漢文を、返り点・送り仮名で、とっさに日本語読みにする能力が鍛えられた。この能力を身につけることで、中国・朝鮮国など東アジアの人々と筆談で会話することが可能になった。貝原益軒は『慎思録』で、「初学や俗学は知識が皮膚の表面にとどまるだけだが、学問を積んだ者はその知識が皮から肉、骨、髄にまで至っているのである」と、知性を身体にたとえている。まさに素読の身体性の現れである。

江戸時代の学問の中心は、儒学に関する明代の注釈書をもとにした朱子学であった。中国・朝鮮で印刷された版本が舶載され、それによって学んだのである。山崎闇斎は、明代朱子学注釈書を暗記する「口耳記誦の学」を批判し、声によって語るという方法で講釈する方法を確立した。その方法とは、朱子による儒学の再構成を追体験し、そのなかで自分自身が儒学を再構成することだった。闇斎学は、朱子の真義を「体認自得」(自らする身体的な体得)であるとし、テキストの言語の奥に潜む朱子の真義こそを伝達する学として確立される。その過程では方法として「講釈」(口語話法)が用いられた。これは従来の儒学伝統からの逸脱であった。日本朱子学はそのように成立してゆく。

一方、荻生徂徠はそれと反対に、反講釈、読書主義をとる。闇斎学が語りのメディアを用いたのに対し、徂徠学は漢籍文字メディアを用いたのである。それは知の伝達メディアの対立(「声=耳」と「目」の対立、講釈と読書の対立)であった。徂徠は訓読法を否定し、中国口語を日本の日常口語に瞬時に転換することで、中国古代語を読む「古文辞」の方法をとったのである。古文辞を「看書」(目と心で看る)することに習熟し、古代中国人と同じように読むことをめざしたのだった。ここには、読書の習熟による身体内部化という方法がある。

このような儒学の学び方の多様化の背後には、出版メディアの展開があった。たとえば貝原益軒は、大量で多様な著作を著し、「益軒本」は次々とロングセラーとなる。貝原益軒は、出版するために著作した最初の儒者であった。それまで漢文によって書かれてきた学問書を、日常言語に翻訳したのだった。この背後には、江戸時代の、商業出版メディアの成立、識字民衆の広範な存在、文化的中間層(漢文読者と娯楽読者の中間)の出現、学習意欲もつ民衆の成立があったのである。

学習する民衆の登場が、石門心学の確立につながった。石田梅岩は耳で聞く「耳学問」を重視し、講釈の方法を使った「道話」という語りの技術を開拓したのだった。心学の内容は開悟」への導きであった。非言語世界を言語で伝達する、という困難なことを口語話法の駆使によって実現したのである。これは口語(声)で構成する「学問」の創出であり、漢文言語への対抗であった。石田梅岩は庶民が諸問題に対応することを可能にする実践的な知をめざしたのである。石門心学は手島堵庵や中沢道二などの後継者を生み出した。「語りのパフォーマンス」としての道話は聴衆に感動体験を誘発し、爆発的に流行する。江戸では無宿人たちを集めた講釈として続いていった。しかし19世紀社会秩序の解体は共同体から排除される底辺民衆を生みだし、やがて道話にも救済不能となった。そこに民衆宗教による救済が現れる。

近代になると、漢文言語が欧米言語に替わった。近代の学校は国家が国民教育をする巨大なメディアであり、近代知の伝達メディアである。一義的な伝達が必要になり、それは文字に定着させる必要があった。文字のメディアこそが近代知を作ってきたのである。世界史の奇跡と言われる日本における学校の急速な普及は、江戸時代の出版文化の基礎があったからであった。しかし現代は、大学の基本を作っている文字メディア(近代知)の崩壊が始まっているのではないか。学校教育中心ではない教育史を、このメディア史の観点から構築したいと思っている。

【記事執筆:田中 優子(法政大学社会学部教授・同研究所兼担所員)】