サブ・プロジェクト③「日本の中の異文化」第1回合同研究会(2007.9.3)
サブ・プロジェクト3「日本の中の異文化」
第1回合同研究会
- 日 時:2007年9月3日(月)10時00分〜17時30分
- 場 所: 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
- 司 会:報告者については下記のタイムスケジュールでご確認ください
学術フロンティア・プロジェクト『異文化研究としての「日本学」』におけるサブ・プロジェクト3「日本の中の異文化」は、北の東北・北海道と南の琉球諸島という二つの境界領域の文化に目を向けることにより、多元的な日本文化の構造を解明し、日本文化研究に新しい局面を切り拓くことを目的としている。その活動の一環として、9月3日法政大学市ヶ谷キャンパスにて、北海道と奄美・沖縄から計5人の研究者を招き、第1回合同研究会を開催した。
北の異文化分野からは北海道余市町余市水産博物館館長の乾芳宏氏と、北海道埋蔵文化財センター第1調査課長の越田賢一郎氏から話題提供していただいた。乾氏に報告をお願いしたのは、その地元の大川遺跡が、『日本書紀』にみえる7世紀半ばの大和政権による北方遠征として著名な「阿倍比羅夫北征」の到達点とする説があるほど日本海交易と密接に関わる重要な拠点であるからである。また越田氏に報告をお願いしたのは、氏が鐵鍋などを中心に古代から中世にかけての物資の流通に早くから注目し、貴重な多くの業績をあげてこられたからで、この両氏からの話題提供によって、北の世界における交易と交流の重要性をあらためて再認識し、やはり交易と交流を史的特質とする南の世界との切点を見いだせればと考えたからである。
乾氏には上記大川遺跡を主たる舞台に、8世紀以降に擦文集落が形成された時期から南北交流の遺物が顕著なることを指摘していただき、それ以後の集落の変遷を詳細に検討しながら、日本海沿岸交流について、?帯金具、鈴(これらは大陸のアムール川上流の松花江付近の靺鞨文化とも深く関わるものである)、墨書・刻書・刻印土器、銛頭等、様々な事例をとりあげて説明していただいた。
越田氏には、物質文化を代表するものとして鍋を、精神文化を代表するものとして玉を素材にとりあげていただき、中世日本国の北の境界の外にあった(すなわち外国として認識されていた)「蝦夷ケ島」の、北方世界の窓口としての役割を具体的に説明していただいた。鉄鍋の導入によって擦文土器は終焉を迎え、竈は居炉裏に変わり、それを入手するために、より交易に依存する社会に変わっていたことを明確にしていただいた。また玉については、それが本州とは異なる装身具文化であって近世アイヌにまで引き継がれたこと、中世北日本のガラス玉が山丹交易のガラス玉とも関わるもので、やはり交易と深い関係にあったことなどを説明していただいた。最後に大陸—蝦夷島—本州という交易網を動いた物資について総括的にまとめていただいた。
以上2報告によって、古代から中世にかけての、交易と交流を中心とした北方世界のダイナミックな動きがあらためて確認できたと思う。
南の異文化分野からは沖縄県立芸術大学教養科目・教職課程教授の安里進氏、琉球大学教育学部准教授の中本謙氏、そして奄美市立奄美博物館主任学芸員の高梨修氏から話題提供していただいた。三者とも最近話題に上がっている南西諸島の中世時代早期(沖縄ではグスク時代から琉球王国時代への変動期、奄美諸島では類須恵器段階期である10世紀頃から13世紀頃まで)を中心とする研究成果を発表、参加者の問題意識を大いに刺激した。
安里氏はまず自身が担当していた浦添ようどれの発掘調査結果を紹介、C14年代測定や高麗系瓦の年代記(咸淳9癸西)等からこの王陵の造営年代を確立し、それが『中山世鑑』に述べられている英祖王権の年代と合致することから、今まで伝説的なものとしかみられていなかった英祖王朝が歴史的な事実であったと強調した。また、いわゆる「大型グスク」の役割、その正殿の構造等にも触れ、現在最古といわれているこの琉球王朝の設立には東アジア広範囲(日本内地、朝鮮半島、中国南部)における人の流れや、その裏にある歴史(元朝)が多大な影響を与えたことを説明された。
中本氏は琉球方言のp音の問題を取り上げ、従来、一貫して文献時代以前の残存とされている琉球方言のハ行p音について疑問を投げかけた。氏の報告によると、琉球方言のp音の中には、琉球各方言にみられるb音(w>b)と同じく、むしろ逆の変化をたどってきたものもあるのではないか(Ф>p)という。参加者に新たな視点を持たせる報告であった。
高梨氏は近年の奄美群諸島・喜界島のグスクでの発掘成果にまつわる様々な報告をされた。喜界島グスクは大宰府の出先機関であったのかという話題に始まり、琉球弧における土器の動態をくわしく論じられた。10世紀からすでにヤマト日本との密接な交易が行われていた奄美群島における在地土器と外来土器の変遷を辿ることで、当時の交易の諸相を把握することができた。 三者の報告により、琉球弧は古代から中世への変動期にすでにヤマト日本だけではなく、広く東アジア諸地域と交流があったという周知を図ることができた。
この合同研究会を通し、古代末期から中世初期、ヤマト国家における北と南の辺境地域には酷似した変化が起こり、また想像をはるかに超える開かれた地域社会が生まれていたことが確認された。このようにして両地域の文化変動を比較討論することで、双方の研究が深みを増し、互いに新しい理解を得ることができた。
【記事執筆:ヨーゼフ・クライナー(特任教授)(北の記事は小口 雅史(文学部教授)による)】