【開催報告】アプローチ(1)2014年度第3回勉強会(2014.10.24)報告記事を掲載しました2014/11/06

「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討−<日本意識>の過去・現在・未来」
アプローチ(1) 「<日本意識>の変遷−古代から近世へ」
第3回研究会

「女らしさ」と国文学研究


期      間  : 2014年10月24日(金) 18時30分〜20時30分

報 告 者  : 衣笠 正晃(法政大学国際文化学部 教授)

会   場  : 法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

司 会 者  : 小林ふみ子(法政大学国際日本学研究所所員、文学部教授)

 

戦後の女子高等教育において国文学(日本文学)科が占めてきた役割の大きさから、今日のわれわれは「女らしさ」と国文学研究を安直に結びつけがちだが、それは果たして妥当だろうか。
鈴木登美による先行研究が明らかにするように、明治中期において国民国家体制確立の装置として国文学研究が成立するにあたり、男性である国文学者たちは、日本文学の主流と位置づけるべき和文学のもつ「女性的」性格に居心地の悪さを感じていた。芳賀矢一は国文学の「繊弱」な傾向を国語(日本語)の性質によるものとすることで、平安期における女性の手になる文学の盛行を説明する一方、「男性的」な和漢混淆文を高く評価することでバランスをとろうとした。芳賀以後の世代においても、和辻哲郎は「もののあはれ」を論じるなかで、平安女流文学のすぐれた性質をみとめつつ、女性作者たちの批評性の欠如を批判し、いわば消極的な肯定をおこなっている。岡崎義恵の場合、女性的なものと結びつけられる「あはれ」を日本的様式の根本精神を示すものとしつつも、そのなかに男性的要素を見出そうとしている。

このような平安女流文学へのアンビヴァレントな評価が積極的肯定へと転換するのは大正期である。垣内松三らによる内面性の重視、「自照文学」概念の導入に並行して、同じくE・G・モールトンに影響された英文学者・土居光知は、『文学序説』(1922)所収の論考のなかで「日記文学」というタームを創出し、平安女流日記を世界文学のなかに位置づけようとした。あたかも同時代の文壇における私小説・心境小説の盛行・理論化のなかで、平安期の女流日記はそれに先行するモデルとしての地位を与えられることになった。国文学者のなかでこの平安女流文学を正面から取り上げた先駆者が池田亀鑑であり、その成果は卒業論文にもとづく著書『宮廷女流日記文学』(1927)に情熱的・感傷的な文体で収められている。池田の師の一人、久松潜一も大正末年から平安日記文学を講義で取り上げ、それが女性の「内面生活のリズム」の描出にとどまらず「表現としての文学」の価値があるとし、「心境小説」として位置づけた。このように平安女流日記は大正期において国文学の主流に位置づけられ、カノンとしての地位を獲得したのである。

ではこのような古典女流文学は女子教育のなかでどのように生かされたのだろうか。中等教育(高等女学校)、高等教育(女子専門学校)のいずれのレベルにおいても、積極的に活用された跡は認めがたい。中等教育レベルでは「良妻賢母」育成という教育目標のもと、科目間の連関が重視され、古文の比率は男子の中学校に比べもともと小さかった。さらに大正期の国語教育における文芸性や自我の重視という傾向に合わせ、現代文の比重がさらに高まる結果となった。上述の久松潜一が編集した教科書(読本)はその典型と考えられる。他方高等教育レベルでは、東大出身の国文学者(平林治徳、石山徹郎、児山信一、風巻景次郎)が中心的メンバーとして関わった大阪府女子専門学校(1924年予科開設)を例にとれば、女性らしさよりも、因習から解放された自律的人格の育成を教育目標としており、国文学を通じての女らしさの教授という動きは認められない。創設期の卒業論文のテーマを検討しても、国文学の女性性をとくに論じたものはごく少数でしかない。

むしろカノン化された古典女流文学の活用の場は、アカデミアの外にあったと言える。大正震災後に国文学の生き残りをかけて当時の東大国文学教室主任・藤村作によって展開されたメディア戦略は、専門雑誌『国語と国文学』、日本文学大辞典、岩波書店ほかの日本文学講座などの刊行、国文学ラヂオ講座の放送など多岐にわたるが、1930年代に入りその延長線上に出現したのが女性向け国文学普及雑誌『むらさき』である。『源氏物語』の舞台化を機会に作られた紫式部学会を母胎に1934年から刊行された同誌は、単なる国文学雑誌の枠を超えた綜合女性誌を目指したものであった。カノンに収まった『源氏』をはじめとする平安女流文学の鑑賞を主軸に、海外の文学・芸術の紹介、さらには映画のようなポピュラー・カルチャーまでを包含することで、女性知識人・知識人予備軍の知的好奇心に訴える戦略がとられた。執筆陣も中心は国文学研究者であるものの、外国文学者や創作家を取り込んだ、幅広い陣容が謳われていた。国文学雑誌の多くが短命に終わったなか、『むらさき』は戦争末期(1944年)に用紙統制のため後継誌『藝苑』へと統合されるまで、10年にわたり存続しつづけることになる。
以上に見るとおり、国文学と女性性との関係をふり返るにあたっては、戦後における文脈にもとづく先入観を排した、慎重な検討作業が欠かせない。それによって研究史から思想史、文化史へと広がる考察も可能になるはずである。

【記事執筆:衣笠 正晃(法政大学国際文化学部 教授)】

左より:小林ふみ子氏(司会者)
左より:衣笠 正晃氏(報告者)

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