ヴァンサン・ジロー氏勉強会『九鬼周造の実存的美学』(2013.2.22)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の現在・過去・未来」
研究アプローチ(4) 〈日本意識〉の三角測量 – 未来へ」

第4回勉強会
九鬼周造の実存的美学

日  時  2013年2月22日(金)18:30〜20:15

会  場  法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

講  師  ヴァンサン・ジロー (京都大学研究員)

通  訳  石渡  崇文 (法政大学文学部哲学科4年生)

司  会  安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所長、文学部教授

講師:ヴァンサン・ジロー氏

講師:ヴァンサン・ジロー氏(京都大学研究員)

会場の様子

安孫子教授、石渡氏、ヴァンサン・ジロー氏

(左から)司会:安孫子信所長(教授)  通訳:石渡崇文氏  講師:ヴァンサン・ジロー氏

 

今回は、京都大学研究員のヴァンサン・ジロー氏を迎え、「九鬼周造の実存的美学」と題して行われた。報告と質疑応答はフランス語で行われ、司会はHIJAS所長で法政大学文学部の安孫子信教授、通訳は法政大学文学部哲学科の石渡崇文氏と安孫子所長が務めた。
ジロー氏は中世哲学、とりわけアウグスティヌスの哲学が専門で、ボルドー第三大学ミシェル・ド・モンテーニュで哲学博士の学位を取得しており、現在は京都大学において西谷啓治の哲学を中心にして研究を行っている。
報告の概要は以下の通りである。

九鬼周造の『「いき」の構造』は、日本文化の洗練された要素が全て集約された、日本文化の真髄を表現する書物といえる。しかし、九鬼は「大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表現の一つ」として「いき」を分析しているため、読者は、九鬼の筆致のきらびやかさではなく、九鬼が描こうとした「いき」の実存的なあり方に遡る必要がある。
『「いき」の構造』は美学に関する書ではあるものの、美しいものを表現するための形式的な諸規則の体系に属する西洋哲学における美学のあり方に照らし合わせると、「美」のカテゴリーを欠いていることが分かる。九鬼にとって「いき」とは主観的な要素としての形式の評価と客観的な要素としての形式の起源の提示によって成り立っており、意識現象としての「いき」は「媚態」、「意気地」、「諦め」からなっている。そして、『「いき」の構造』は、カントが『判断力批判』で行ったような趣味判断の問題を取り扱うのではなく、美的な諸性質が考察、評価されており、「美しさ」の概念の不在は、「いき」の把握そのものによって満たされるのである。
さて、美学の実存的理解という点において、九鬼はキルケゴールに接近しており、実在性の解釈学事実性の解釈学を確立することに努めたハイデガー哲学を方法論的な基礎に置いている。九鬼は、「いき」の自然的表現と芸術的表現の分析のために「上品と下品」、「派手と地味」、「いきと野暮」、「渋味と甘味」という要素を用いる。ただし「いき」の実存的な構成要素の構造を理解することと「いき」を経験することとは別種のものであり、「いき」がどれほど概念的に分析されるとしても、分析された要素によって「いき」を経験することはできない。そして、九鬼は、「いき」を理論的に記述し、読者に理解させるのではなく、「いき」の現象を可能な限り感じさせ、体験させることを真の目的としたのである。その意味で、九鬼は「いき」の説明ではなく、「いき」を通して、実存への誘いかけを行ったのである。
それでは、日本民族の特殊性としての「いき」、あるいは「特殊の文化存在」としての「いき」は、外国人の参画を許すのであろうか。ここで問題となるのが、事柄の現象学的探求に固有の要素、言語を絶する要素としての「日本性」である。言語を絶する要素とは共同体的な要素によって感得されるべきものであり、その意味で、九鬼は文化的、民族的な明証性を前提とした経験の実体化を試みたといえる。しかし、九鬼の独自性は、実存の厳格な分析と特殊な文化の分析のいずれをも拒否したことであり、日本的経験の実体化は、人間存在に対する九鬼の自覚により回避されたのである。
九鬼は、「民族存在」の根底に民族に固有な「我々」によって実現される実現性としての文化の概念を措定する。そして、「いき」の経験は、「特殊な民族存在」が人間存在に属することに同意することによって成り立つのである。ここにおいて、民族の概念は文化の中で体現されることになり、抽象的な普遍性でも、民族的具体性でもない、人間存在が持つ潜在性の現実化が図られる。その意味で、文化は実存的な態度として内在的に規定されるとともに、経験は民族の中で深められ、あらゆる個的な存在が独自の可能性によってその経験を拡張することになり、これは、実存に対して与えられるべき適切な形であるといえるだろう。
ここで、『「いき」の構造』が何を目的として書かれたかを考えるとき、答えはどのようなものになるだろうか。九鬼は、「「いき」は現代においては生き残れない」と主張するのでも、「日本文化の精髄を保持せよ」と主張するのでもなく、「実存によって開かれた時限を生きること」を目的としたのであって、一般化されることによって卑俗(vulgaire)になることが脅威である、と訴えようとしたのである。ラシーヌの作品が忘却されることを恐れたスタンダールに似て、九鬼は「いき」が忘却されつつあるあったからこそ、あえて「いき」を主題として取り上げたのであろう。そして、もし美学が現実に存在する人間のあり方を離れて単なる思考実験に陥るのなら、卑俗化という姿を借りた危機が忍び寄り、人間が存在する固有のあり方にまでその影響が達していることになるのである。

「日本文化を解説した本」と思われがちな『「いき」の構造』が、「いき」という要素を通して人間のあり方の本質に迫ろうとした論考であるとともに、人間の実在を考える手がかりとなる「いき」が忘却の危機に瀕しているからこそ九鬼があえて「いき」を主題とした、という指摘は、日本の文化的な特徴と人間の本質のあり方を考えるために、われわれに示唆に富む観点を提供したと考えられた。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】