キブルツ氏講演会『キルヘル・ケンペル・シーボルトが描く日本の仏像』講演会(2011.11.25)

法政大学国際日本学研究所 文部科学省戦略的研究基盤形成支援事業

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の現在・過去・未来」 研究アプローチ(4) 〈日本意識〉の三角測量 – 未来へ」

文部科学省「国際共同に基づく日本研究推進事業」採択
「欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及び日本観の研究」プロジェクト

合同講演会
『キルヘル・ケンペル・シーボルトが描く日本の仏像』 開催報告


日  時 2011年11月25日(金)18:30〜20:30

会  場  法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

講  師  ジョセフ・キブルツ(法政大学国際日本学研究所客員所員、フランス国立科学研究センター 教授)

司  会  安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所長・文学部教授)

ジョセフ・キブルツ教授

安孫子 信所長(教授)

講義の様子

会場の様子

去る11月25日(金)、法政大学国際日本学研究所セミナー室において、「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」アプローチ(4)「〈日本意識〉の三角測量—未来へ」及び文部科学省「国際共同に基づく日本研究推進事業」採択「欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及び日本観の研究」プロジェクトの合同講演会が開催された。今回は、フランス国立科学研究センター教授で法政大学国際日本学研究所客員所員のジョセフ・キブルツ氏を迎え、「キルヘル・ケンペル・シーボルトが描く日本の仏像」と題して行われた。講演会の概要は以下の通りであった。

 

日本の仏像などの図像を初めて描いた書物は、カルタリ(Vincenzo Cartari)のNova Seconda Imagini De Gli Dei Indiani (インドの神々の図像)であった。本書は1589年に出版されたImagini de Gli Dei Delli Antichi (古代の神々の図像)の第2版に当たり、「インドの神々」という名称の下に、当時知られていた東洋の神の図像を収め、日本の場合には、仏教の観音などが描かれていた。観音図などは当然ながら中国にも存在したが、本書の中で「日本のもの」と明記されていることからも、中国の仏像ではなく、日本の仏像が収録されていることが分かる。ヨーロッパにおいて日本の仏像が中国の仏像よりも早く絵画を通して紹介された理由としては、(1)16世紀末の時点で日本のキリスト教徒が約50万人と、イエズス会にとっては中国よりも理想的な布教の対象であったこと、(2)日本に赴いたイエズス会の宣教師が、日本で布教することを正統化するために「日本では悪魔を崇拝しており、そのような邪教の信者たちをキリストの教えに導くことが必要だ」と主張する際の証拠として観音図などを本国に持ち帰ったこと、などが考えられる。
Imagini de Gli Dei Delli Antichiを前史と捉えると、主体的に日本の仏像を絵画に描いた最初の人物がキルヒャー(Athanasius Kircher)であった。キルヒャーは中国から宣教師たちが持ち帰ったお札を基に、仏が左右に孔子と孟子を従える三尊図などを収録したChina illustrata (中国の図像)を1667年に出版した。本書は高価であったが1500部程度が出版され、ヨーロッパで流通しており、当時のベストセラーといえる書籍だった。キルヒャーはルイス・フロイスなどの宣教師が本国に送った手紙で報告した日本の仏像の描写や、日本で作られた仏画を正確に模写して観音図などを描いた。その中には十手観音も含まれ、図には観音の真言と巡礼の真言が描かれている。しかし、当時のヨーロッパでは梵語が知られていなかったため、手本とした仏画に記された梵語の意味を解読することができなかった。そのため、キルヒャーは十手観音を観音ではなく、多手多乳という特徴から、エジプトの神イシスと同じく、神々の母と理解していた。なお、キルヒャーの描いた十手観音は、日本の万福寺に収蔵されている、宝永元(1704)年の年号が書かれている『七倶胝佛母心大准提陀羅尼經』の見返しにも類似する図がある。そのため、万福寺蔵の『七倶胝佛母心大准提陀羅尼經』に先行する写本の見返しが切り取られてヨーロッパに渡り、それをキルヒャーが参考にして十手観音を描いたことが予想される。
さて、『日本誌』の邦題で知られるThe History of Japan (1727)を著したケンペル(Engelbert Kaempfer)は、自著の中で日本の仏像などを描いている。その中の一つが牛頭天王であるが、実際には頭から角が生えるなど、牛頭天王そのものではなく、元三大師を牛頭天王と間違えて描いていることが分かる。それでは、何故ケンペルは牛頭天王と元三大師を間違えたのであろうか。住吉具慶の『都鄙図巻』の中にも、角大師のお札を家の柱に貼る光景が描かれているが、ケンペルはそのような様子を、江戸参府の途中に滞在した京都で目にした可能性がある。あるいは、祭礼の際に出島から長崎の市街地を見学した折に角大師のお札を目にし、通訳にしたものの、通訳が角大師を元三大師ではなく、誤って牛頭天王と伝えた可能性もある。実は、長崎の祇園社は17世紀半ばに上野の寛永寺の末寺になっていたが、江戸における比叡山という性格を与えられ、東叡山の山号を持つ寛永寺は、角大師のお札を用いて真言宗を関東に広めていた。その寛永寺の末寺になったことで祇園社でも角大師のお札が用いられていたのである。しかし、当時、祇園社というと牛頭天王を連想するのが一般的であったため、通訳も当時の常識に基づいて、祇園社で配られた角大師のお札を牛頭天王と思い込み、ケンペルに伝えたことが考えられる。また、ケンペルは、Amoenitatum Exoticarum (邦題:廻国奇観、1712)の中で達磨の絵を描くとともに、ヨーロッパに初めて達磨の伝記をもたらした。その中で、ケンペルは達磨を「茶の始祖」として紹介し、黄檗流の筆致で達磨の絵を描写した。想像によって黄檗流の絵を描くことは難しいため、ケンペルは何らかの方法で入手した日本のお札を持ち帰り、ヨーロッパで達磨の絵を描いたものと思われる。
一方、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)は、大著Nippon (邦題:日本、1833-1851)の中で、摩利支天の図を、「日本の守護神である戦いの神」とし、馬櫪神を「日本の馬の神」として描いている。シーボルトが葛飾北斎の『北斎漫画』を所有していたことはよく知られており、その中の図を手本として、Nipponにおいて摩利支天や馬櫪神を描いていることは明らかである。また、シーボルトは、当時としては珍しい本ではなかった、様々な仏像の絵を収録した『仏像図彙』も所有しており、そこに描かれている七福神などもNipponに収録している。なお、『仏像図彙』は、シーボルトの弟子であり、ヨーロッパの大学で初めて日本語を教授したヨハン・ホフマン(Johan Hoffman)によって1870年代に翻訳され、Nipponの別巻として刊行された。また、Nipponは、本文5巻、図版3巻からなる大部な著作であったが、1890年代になって普及版が出版されたこともあり、1930年代に至るまで、欧米の日本研究に強い影響を与え続けることとなった。

以上のように、絵画を資料とするとともに、それぞれの絵画が制作された時代の背景や、前後の状況を視野に入れたキブルツ氏の検討によって、キルヒャー、ケンペル、シーボルトの描いた日本の仏像の持つ意味や特徴が明らかになった。そして、当初は伝聞やわずかな資料に基づいて描かれていた日本の仏像が、やがて日本での資料の直接の収集を経て描かれるようになるという変化は、外国人の日本に対する興味や関心の高まりを傍証するといえよう。その意味で、今回のキブルツ氏の発表は、単にキルヒャー、ケンペル、シーボルトが描いた日本の仏像の考察にとどまらず、16世紀から19世紀にかけての、外国人の日本への眼差しの変化をも辿るものでもあったといえるだろう。

【報告者:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】