第8回東アジア文化研究会(2009.11.24)

学術フロンティア・サブプロジェクト2異文化としての日本

2009年度第8回東アジア文化研究会「戦後日本史を美術で考える」


■報告者:海上雅臣氏(国際美術評論家連盟会員、株式会社ウナックトウキョウ主宰)

■日時:2009年11月24日(火)18:30-20:30

■会場:法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2F 国際日本学研究所セミナー室

■司会:王 敏(法政大学国際日本学研究所 教授)

左より 王教授(法政大学)、海上先生、陣内教授(法政大学)

 

書から迸る日本文化の発信——なぜ井上有一は中国で評価されているか

 

これは、書画だ!書と画に分けられない「書のような画」、「画のような書」という芸術だ!

破天荒な書家、井上有一の筆墨作品はどれもこれも胸に迫ってくる。その有一が、ここ数年、ルネサンス以降の芸術家を厳選し発刊し続けている中国の叢書『世界名画家全集』(河北教育出版社)に収録された。ピカソやロダンはじめシリーズで取り上げる101人のほとんどが西洋人で、日本から選ばれたのは井上だけである。その『井上有一』(海上雅臣著、楊晶・李建華訳)の刊行はこの10月のことで、中国の芸術界に衝撃を与えた。

漢字の国の中国は、書に対して「保守的」とも思われるところがある。書聖・王羲之の書の道は今も揺るがない。改革開放は経済や政治が主な舞台だ。若者たちのハートをつかんだポップカルチャーやファッションは変化の先取りをしているが、文化・芸術における古来の規範や規則にかかわる部分は概して変化から取り残されると思われる。

有一を世界に向けて紹介し続ける国際派美術評論家の海上雅臣氏は「中国で書はルールに沿ったものが当然視される。有一は極端に異質だから『全集』に入ったのだろう」と指摘するが、私もその通りと思う。

海上雅臣氏に招かれて有一の作品を拝覧する機会があった。「貧」の字が「貧」に見えなかった。堂々と両腕を天に突き上げて深呼吸している人間と錯覚した。1メートル四方の台からはみだして歩き出しそうに感じた。ふしぎな臨場感に襲われたことを忘れられない。その感覚で有一の作品集を手に取ると、字の一つひとつが生きている人物になって、作品集から飛び出して来そうに感じるから、困って困って、何度か目をつむったのである。

有一の人生の転機となったのが東京大空襲の仮死体験というのは、あまりにも有名な話だ。一度は諦観した死んだ命の再生ほどエネルギッシュな生命力を得るときはない。甦った有一はその後生きる限り生命の質を落さずに書に向かったのだろう。有一は自らの生き方を「愚徹」と言って、飾らなかったその精神は、老荘思想に通じる「愚徹」そのものだ。これは、有一が宮沢賢治をしたっていた根源でもある。

賢治は「雨ニモマケズ」の詩を「デクノボー……ニ、ワタシハナリタイ」と締めくくった。有一は校長への適格審査で趣味を聞かれて、洋服のポケットから賢治の詩を写したノートを取り出して、教育委員会の人たちに見せたという逸話があるそうだ。おそらく有一はふだんからしばしば賢治と一体になる感覚があったのだろう。クレヨン書きらしいが、「雨ニモマケズ……」の詩も「なめとこ山の熊」の童話も、その作品からは時間と空間を超越した七変化のキャラクターがはねて飛び出してくるようだ。舞っている、はねている、歌っている、トントントントン。周りを陽気にさせるたくさんの賢治たちが見えるようだ……。

賢治は、じつは西洋近代化に走る当時の日本が古きよきふるさとを見失いかけていることを見抜いて、童話に託して呼び覚まそうとしたのである。有一も若いころ西洋画をのぞいたりした挙句、東洋古来の書を認識して遍歴は止まる。見逃しがちな東洋の美の原点にあたる再発見であり、現代日本人の精神の深層に構造的に内蔵されていながら自覚されていない蘇りのようなものだ。終生、書に固執したのは書が創りだすダイナミズムを自分自身に、日本人に思い出してほしかったのだろう。それを「前衛書」と評価したのはただ周りの事情にすぎない。きっと本人が感情をほとばしらせることができたのが「書」だったにすぎないのであろう。

書でもって感性の世界を「描く」ことができた。言葉を通り越して概念を抽出化した。理屈抜きに主張を理路整然と並べることができた。ここに至るまでの過程で、有一は伝統的権威とされる規範を本能的にはみだし、絵画に近づくことで五感を表現した。表現したいもの、体の内奥から湧き出てくる感性を書き続けた。賢治の「オロオロアルキ」のように、「書・書く」という行為を繰り返した。

こうして有一は中国の伝統的書法の境界を超えた新しい「書法」を体現した。書と漢字と日本的繊細な感性を一体にさせ、書と絵画の境界をなくした有一だ。中国生まれの書法が伝承され、日本人の有一によってこのように昇華した。中国人は驚いた!有一の目指したものは中国人にもすなおに伝わるにちがいない。

『井上有一』はB5版で約230ページ。写真も多く、作品中心に約100点を収めている。中国『世界名画家全集』シリーズでも、井上有一はいつまでも輝くにちがいない。

中国で放たれた有一の「異彩」は日本文化の発信になる。発信と受信の互換を可能にした交信者は海上雅臣氏である。

現代の日本人にとって生活史の原点が戦後だとすれば、海上雅臣氏は井上有一という書家の遍歴を軸にまとめ、その可能性を見せてくれた。(完)

【記事報告: 王 敏(法政大学国際日本学研究所教授】

海上雅臣(うながみまさおみ)氏略歴

1931年、東京生まれ。国際美術評論家連盟会員、株式会社ウナックトウキョウ主宰。1949年、18歳で47歳の棟方志功の版画を買いその縁で、ヴェニス・ビエンナーレ国際大賞を得るまで7年間、棟方志功の画業を整理し、4冊の本をまとめ、谷崎純一郎「鍵」挿画へのきっかけをつくった。1971年には陶芸界の異才八木一夫の作品集をまとめ、伝統と革新の批評テーマを確立する。同時代の作家を対象として批評活動を行い、同時に展覧会開催や作品集刊行等、紹介・普及にも積極的に取り組んでいる。また井上有一に関しては、カタログレゾネ『井上有一全書業』(ウナックトウキョウ、1996年)の編集刊行等により、国内外における有一の評価を高め定着させるという大きな成果を生んだ。2002年、行動的美術評論家の範を示したとして日本現代美術振興賞を受賞。

井上有一(いのうえゆういち)略歴

1916年、東京下谷二丁町に古道具屋の一人息子として生まれる。1935年青山師範を経て東京市本所区横川尋常小学校訓導勤務、定年に至るまで41年5カ月にわたり小、中学校教員を務めた。1941年から51年まで書を上田桑鳩に師事し、1950年に第3回書道芸術院展に初めて出品して書家デビューを果たす。1952年「書の解放」を求め同志五人で墨人会結成。1955年反伝統の実践?筆墨紙を片づけ文字を書かないと定め、筆草を束ねた手作りの筆にエナメルをひたしケント紙にデタラメ書きをする。その後、1957年サンパウロ・ビエンナーレ日本代表、1959年ドクメンタ(カッセル)出品、以後1965年まで抽象表現主義の潮流にのり相次いで各種国際美術展に出品し、「前衛書道」の第一人者として注目される。1967年から74年まで在野団体による「日本現代書展」リーダー。1971年海上雅臣と出会い

最初の作品集「花の書帖」(海上雅臣編、求龍堂)刊行、初の個展開催(銀座、壱番館画廊)。以後没年に至るまで個展を15回開催する。1985年、肝不全で没する。