日本の中の異文化「2008年度第1回合同研究会」(2008.8.31-9.2)

学術フロンティア・サブプロジェクト3 日本の中の異文化

2008年度第1回合同研究会

報告者

木村 哲朗 氏 (奥尻島)
瀬川 拓郎 氏 (北海道)
八木 光則 氏 (岩手県)
伊藤 博幸 氏 (岩手県)
小嶋 芳孝 氏 (石川県)
小口 雅史 氏 (法政大学 東京)

2008年8月31(日)〜9月2日(火)

場 所       北海道奥尻島

学術フロンティア・プロジェクト『異文化研究としての「日本学」』におけるサブ・プロジェクト3「日本の中の異文化」は、北の東北・北海道と南の琉球諸島という二つの境界領域の文化に目を向けることにより、多元的な日本文化の構造を解明し、日本文化研究に新しい局面を切り拓くことを目的としている。その活動の一環として、去る8月31日〜9月2日に、奥尻島(北海道奥尻郡奥尻町)にて、本学関係者及び地元北海道、さらに岩手・宮城・石川県より計11名の研究者(北方交流科研グループも合流)が集まり、本年度第1回合同研究会を開催した。

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第3サブプロジェクト『日本の中の異文化』の本年度、第1回目の研究会は、去る8月31日(日)、9月1日(月)と2日(火)の三日間にわたって、北海道の奥尻島で行われた。法政大学側からは小口雅史、地元奥尻島からは木村哲朗氏、北海道からは瀬川拓郎氏、岩手県からは八木光則・伊藤博幸両氏、石川県からは小嶋芳孝氏の計6名が参加し、さらに同じ奥尻を研究テーマに取り上げている北方交流科研グループその他から、天野哲也・小野裕子・熊谷公男・中村和之・乾芳宏の各氏が参加した。

奥尻島は一説には古代史料に現れる津軽のさらに北と目される渡嶋の比定地と深く関わる場所ともいわれ、サハリンから南下したオホーツク文化が、本体はオホーツク海沿岸に広がる一方で、この奥尻島方面にも南下し、関連遺跡を残したという点で、きわめて特異な、北方交流史研究上重要な地点の一つである。そこでぜひ現地の遺跡を踏査し、それを踏まえた上で、古代の奥尻島をどのように理解し北方史ないし北方交流史上に位置づけるのかをテーマに研究会を企画した。本来は昨年度開催予定であったが、地元の受入の都合で本年に延びたものである。

8月31日は、木村哲朗氏の厚いご配慮で、オホーツク文化の遺物を出した青苗遺跡の出土品を特別に調査させていただいた。またその他、島内から出土したさまざまな様式の土器についても長時間にわたって精査させていただき、奥尻島を独自の文化として位置づける、いわゆる「青苗文化」論の可能性を、実地に即して改めて検討した。
9月2日には、町の教育委員会のある海洋研修センター「ワラシャード21」会議室を提供していただき、そこで丸一日かけて、奥尻島の古代文化について、研究発表と討論を繰り返した。小口の問題提起「「古代渡嶋?」での開催にあたって」のあと、木村哲朗氏から「青苗砂丘遺跡の遺構と出土遺物について」と題して、オホーツク文化と深く関わる島内のもっとも注目される遺跡の紹介があった。また小嶋芳孝氏からは「7・8世紀のロシア沿海地方と北海道」と題して、奥尻島をロシア沿海州地方と北海道との関連でどのように位置づけるかという視点での報告があった。また青苗文化の提唱者瀬川拓郎からは「アイヌと和人の境界−中間領域の実態をめぐって−」と題して、和人との交易の基点としての奥尻島の位置付け、奥尻島に代表される小地域集団の存在について、その役割分析があった。最後に八木光則氏から「青苗文化論をめぐる二・三の疑問」と題して、奥尻島を独自の青苗文化圏と位置づける瀬川説について、本州の土器の研究者としての立場から、いくつかの確認事項が提起され、それをふまえて本州との交易の問題についての言及があった。
なお北方交流科研グループその他からの参加者の報告をあわせて紹介すると、中村和之氏から「女真の海の活動はいつまで続くか?」と題して奥尻島を取り巻く交易の世界の紹介が、また小野裕子氏から「古代の土器から見た幣賂弁嶋」ということで、奥尻島を含む北海道内の土器の地域差についての報告が、また天野哲也氏から「礼文島香深井1遺跡2号竪穴住人の行方−粛慎[アシハセ]論の新たな展開−」と題して、礼文島のオホーツク文化人が、奥尻島を経由してさらに佐渡まで南下した可能性についての言及があった。
報告の都度、関連する他の研究者からそれぞれコメントが出され、それを受け手の討論が繰り返された。また総括討論は、会場閉鎖後はホテルに戻って深夜にまで及ぶ活発なものとなった。
これらを通じて奥尻島および渡島半島地域の特性があらためて確認され、今後の北方交流世界解明のための重要な一里塚となったことは間違いない。北方世界全体の中での位置付けは来年度の総括の中で明らかにしていきたい。
9月2日には島内の遺跡を再度踏査後、散会となった。

【記事執筆:小口 雅史(法政大学文学部教授)】