チエリー・オケ氏勉強会『サイボーグ:現代マンガにおけるポストヒューマンのタイポロジー』(2013.1.22)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の現在・過去・未来」
研究アプローチ(4) 〈日本意識〉の三角測量 – 未来へ」

第3回勉強会
サイボーグ:現代マンガにおけるポストヒューマンのタイポロジー 


日  時  2013年1月22日(火)18:30〜20:40

会  場  法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

講  師  チエリー・オケ (フランス,リヨン第3大学教授)

通  訳  石渡  崇文 (法政大学文学部哲学科4年生)

司  会  安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所長、文学部教授)

講師:チエリー・オケ教授

講師:チエリー・オケ氏(リヨン第3大学教授)

司会:安孫子信所長(教授)

(左)通訳:石渡崇文氏
(右)講師:チエリー・オケ氏

会場の様子

今回は、フランスのジャン・ムーラン・リヨン第3大学のチエリー・オケ氏を迎え、「サイボーグ:現代マンガにおけるポストヒューマンのタイポロジー」と題して行われた。報告と質疑応答はフランス語で行われ、司会はHIJAS所長で法政大学文学部の安孫子信教授、通訳は法政大学文学部哲学科の石渡崇文氏と安孫子所長が務めた。
オケ氏は自然哲学、啓蒙思想の専門家で、これまでにBuffon/Linné: éternels rivaux de la biologie? (2007)Darwin contre Darwin : comment lire l’origine des espèces? (2009)を上梓したほか、2011年には心身二元論を考察したCyborg philosophie : Penser contre les dualismesを刊行するなど、学問の枠組みを超えた横断的な活動を行う、気鋭の学者である。
報告の概要は以下の通りである。

ダルコ・スーヴィンは、Metamorphoses of Science Fiction: On the Poetics and History of a Literary Genre (1979)において「おとぎ話の論理」と「SFの論理」を提唱した。すなわち、「おとぎ話の論理」とは「空飛ぶじゅうたんの論理」であり、重力の法則といった世界の法則が一時的に中断することが認められていながら、主人公はすべての願いをかなえることはできず、運命に打ちひしがれて終わることが一般的である。一方、「SFの論理」とは、認知疎外を生み出すものであり、しかも現実の中に隠れている潜在的な事柄を調べ、架空の設定を利用し、具体的な現実の中に埋もれている物事のあり方を明らかにする、世界に対する批判的な眼差しのことである。このようなスーヴィンの区別は有益だが、今回われわれが取り上げる「ポストヒューマンのフィクション」には適合しない場合がある。そこで、この発表では、「おとぎ話の論理」を「すべてが可能で、原因や結果、理由を考える必要のない世界」とし、「SFの論理」を「現実の世界とフィクションの世界が連続している世界」と考えることにする。そして、この発表でわれわれが具体的に検討するのは、ロボット、ミュータント、オルガノーグ、サイボーグである。
人格を与えられた固体であり、人間の仲間であるとともに人間に仕える者、人間の奴隷がロボットである。ロボットを代表するマンガは手塚治虫『鉄腕アトム』で、この作品は一見するとおとぎ話に属するように思われる。しかし、実際には、経済的有用性の観点から導入されたロボットが感情的な次元へと移行する様を象徴的に描くのが『鉄腕アトム』であり、哲学的あるいはSF的な反省の立場から人間とロボットの関係が捉えられている。
ミュータントは、人間がどのように介入しても意図的に生み出すことができず、「自然のみが生み出しうる」という意味で自然主義的性格をも備えている。アメリカンコミックは『スパイダーマン』や『ファンタスティック・フォー』、『X-メン』のように遺伝子の突然変異によって誕生するミュータントを主人公とする作品が数多く存在する。これに対して、日本のマンガでは、突然変異という厳密な意味でのミュータントが登場する作品は少なく、多くの場合において変形や変身がミュータントの属性として描かれている。ミュータントはSFではなく、尾田栄一郎のマンガ『ONE PIECE』の主人公ルフィが象徴するように、「現代のおとぎ話」に属している。しかし、『X-メン』はミュータントをSF的に扱っており、「われわれはどれだけ違えば「異常」になるのか?」あるいは「われわれはどれほどの違いによって「人間」という種から排除されるのか?」といった、「ミュータントの認知疎外」の問題が扱われている。また、大友克洋の『AKIRA』は、変形という突然変異の一般的なあり方を通して、ミュータントをSF的な観点で描いた作品である。
生身の肉体と機械とが融合し、しかも機械の部品を交換できるサイボーグは、アメリカン・コミックでは『アイアンマン』が代表例であり、日本のマンガでも『サイボーグ009』を筆頭に、人気の高い登場人物である。しかし、石ノ森正太郎『サイボーグ009』の場合、登場人物が常に特異な存在であり、代替不可能であるという点で、個人の才能を賞賛する古典的な英雄主義に陥り、サイボーグの話としては成功を収めていないといえるだろう。それでも、『サイボーグ009』はブラックゴーストという冷戦時代の東西両陣営の産物ともいえる敵役の存在によって、SFという政治的な側面を帯びやすい分野の特徴を明瞭に備えている。マンガからフィクションへと視野を広げると、アメリカの映画『ロボコップ』は、サイボーグの身体についてわれわれが考察するための最良の事例となる。マンガでは大友克洋の『老人Z』や士郎正宗の『攻殻機動隊』が『ロボコップ』の取り上げた問題を扱っている。とりわけ、『攻殻機動隊』は、「サイボーグは古くなる危険があるため、常にメンテナンスを受けなければならない」という形で、サイボーグの身体が交換可能であることの説明を行っている点は、注意が必要であろう。
何らかの道具や機械を身に着けたオルガノーグは、道具を使うというオルガノーグの特徴に由来する問題、すなわち熟練の問題を本質的にはらむ。「おとぎ話の論理」を代表するのは『ONE PIECE』に登場する、一度に三つの刀を操るゾロであろう。また、寺沢武一の『ゴクウ』は、「巧妙な技術」という古典的なオルガノーグの問題を扱っている。あるいは、木城ゆきとの『銃夢』は、「装備と力がすべてではなく、正しく使用することも問題となる」という、個人の才能と技術的な装備のあり方についての反省がなされている。
以上のような検討からわれわれが導き出せるのは、マンガは「人間とは誰か?」、「人間を名乗る資格とは何か?」、あるいは「人間とポストヒューマンとの境界は何か?」という問題を横断的に捉えようとしていることである。また、アメリカン・コミックがミュータントを好み、日本のマンガがサイボーグを好むのは、ある意味でそれぞれの作品の主たる読者である両国の青年層の気質や性向を少なからず反映しているといえるかもしれない。さらに、手塚治虫の『ブラックジャック』におけるピノコや北条司の『エンジェル・ハート』のグラス・ハートの事例などは、ポスト・ヒューマンにおけるハイブリッドの存在の重要性を示唆する。このように、ある事柄が生み出す現象の背後に存在する、本質的、哲学的、形而上学的、あるいは普遍的な価値の追求が、マンガという媒体を通して行われているといるのであり、このような追求を行うわれわれが、実はすでにポストヒューマンなのである、ということができるだろう。

今回の報告では、現代のマンガをサイボーグやミュータントといった存在を通して分析し、娯楽の対象であるマンガに含まれる哲学的、自然科学的な要素の持つ意味が検討された。これは、いわゆるサブカルチャーとハイカルチャーの融合、あるいは相互補完のあり方を明らかにしようとする、意義深い取り組みであると考えられた。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】