研究アプローチ③第3回東アジア文化研究会(2010.6.22)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」

研究アプローチ3「〈日本意識〉の現在−東アジアから」

2010年度 第3回東アジア文化研究会

「原点としての儒教的家父長制、そして狂気と異端

−梁石日の『血と骨』を中心に−」

報告者:? 煥基(法政大学国際文化学部 客員研究員、東国大学教授)

日 時:2010年6月22日(火)1830分〜2030分 

場 所:法政大学市ケ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

司 会:高柳 俊男 (法政大学国際文化学部 教授)

 

本発表は戦後在日コリアン文学の民族的グルスギ、民族から民族へ、民族的グルスギの流れで、石日の代表作(『血と骨)』、『夜を賭けて』など)に見られる原点としての儒観の的意味を考察するのが目的である。

先ず、石日の『血と骨』、「祭祀」には特に儒(家父長制、統意識、男尊?卑、孝道?念)が目立つ。例えば「女に育を受けさせるとろくなことはない」雌鳥が啼くと家が滅ぶ」「祭祀をおろそかにする人間は最大の不孝子」、「血は母より受けぎ、骨は父より受けぐ」などの言がそれである。しかし?石日の小?は力な無頼漢の狂と異端という破格的な行?を通じて?存のを覆し、裸になったまま負性と向き合う。瘠薄な周環境と底の生の形象化(?性遍、暴力、賭博、殺人、麻)がそれである。言わば「人間を喰ったフカで蒲鉾」を作る。暴力との小競り合いで?漢淳の耳をみちぎって「その耳を奥歯で咀嚼して食べて」しまう。「わしの金を喰う奴は、わしの血を吸うのと同じだ。」「わしの金を喰う奴は誰であろうと許さん」と言いながら債務者に自分の血を飲ませる奇的な行動まで見せる。『夜を賭けて』にも「飢えは警察よりも砲よりも死よりも恐ろしい」という被差別人の意識を通じて大阪の兵器製造場で屑を拾う「アパッチ族」の苦しい生存闘争現場は告発される。

ディアスポラ文学が「自でない異で定着して生きるまでの刻苦の艱難史、位置性、他者との妥協と非妥協、調和と?調和の係を文的に省察」したものだとすれば、植民地時代と戦後の在日コリアン文学の植民/被植民、主流/非主流というイデオロギ的二項立、あるいは異邦人の民族意識、疎外意識、窮乏な生活描写はディアスポラ文学と言ってよい。そして『血と骨』の無漢の逆走行は少者の艱苦な生存闘争に対する、民族意識と普遍的値の追求、ディアスポラの心の底からの慟哭の声と言える。

『血と骨』に形象化された?俊平の狂と異端の世界(超越性)の文的意味は、1)基本的に時代??史的な認識がはっきりしており儒的な観をもとにしていると言える(「朝鮮人」たちの抵抗、労働者の集行動、民族意識と帰国運動など)2)?俊平の狂と異端は当時の植民/被植民、支配/被支配、主流/非主流、中心/の?關係が作り出した異邦人の鬱憤、怨恨、慟哭の身悶えである。3)?俊平の極限的行動は?鶴泳文学の内向的な昇華とは異なる一種の「恨」の外向的な昇華である。4)と異端的世界には個人を超えた外部世界(他者)に向かった特別なメッセジがめられていると言える。結局、?石日の小?で形象化される生存闘争の現場は被差別人の純な艱難の意味を超え、主流/中心にする非主流/の抵抗意識と文的「アンチ」精神が包されていると言える。そして主人公の狂気と異端の世界は在日コリアンの負性の表象であり、儒するねじ曲げであり、克服と再生のための自己否定である。こうした文的特?は力な力とカリスマ性に代弁される?石日の小?の超越性とエンタテイメントの体が確認できる支点でもある。

【記事執筆:?煥基(法政大学国際文化学部客員研究員、韓国 大学)】