【開催報告】平成27年度科学研究費若手研究(B)採択 戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として第4回研究会(2017.8.1)報告記事を掲載しました2016/08/03

平成27年度科学研究費若手研究(B)採択
「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」
第4回研究会

「大正維新」、「昭和維新」とは何であったのか
―出口王仁三郎の思想と行動を中心に―

日 時: 2017年8月1日(月)18時30分~20時30分
場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス九段校舎別館3階研究所会議室6
報 告: 徐 玄九(法政大学)
司 会: 鈴村 裕輔(法政大学)
主催:  鈴村 裕輔(平成27-29年度科学研究費助成事業(若手研究(B)「戦前の民間組織による対外的情報発信と
その影響:英語版『東洋経済新報』を例として」[研究課題番号:15K16987]代表)後援:法政大学国際日本学研究所

 

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報告:徐玄九氏(法政大学)

2016年8月1日(月)、法政大学九段校舎別館3階 研究所会議室6において、研究会「「大正維新」、「昭和維新」とは何であったのか―出口王仁三郎の思想と行動を中心に―」が開催された。
本研究会は、平成27年度科学研究費若手研究(B)採択「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」(研究代表者:鈴村裕輔、研究課題番号:15K16987)による第4回目の研究会であり、講師に徐玄九氏(法政大学)を招き、法政大学国際日本学研究所の後援の下に実施された。

研究会の概要は以下の通りであった。

日本の政治史、社会史において、明治維新に続く「第二の維新」を標榜した運動は、いずれも明治維新が不完全なものであり、明治維新の徹底化を目指して行われた。そして、「第二の維新」に関わる運動は、明治維新によって起きた日本の西洋化の流れに対抗する形で、「失われた日本」、「原始の日本」の探究や伝統的な思想の共有などに取り組んだ。また、生長の家や世界救済教など、日本の有力な新興宗教には大本教の元信者が創設した教団が少なくなく、創設者たちは大本教の出口王仁三郎の教団運営の方法を学び、自らの教団に応用していた。一方、明治時代になって西洋から日本に導入された代表的な西洋の思想はキリスト教とマルクス主義であり、いずれも知識人を対象としていた。これに対し、大本教は教祖の開祖である出口なおが貧困層から身を起こしたことが示すように、庶民層を対象としていた。そして、昭和初期に発生した天皇制ファシズム運動に関しては、青年将校が大衆の支持を得なかったのに比べ、大本教は庶民層を起点として運動を展開した。以上から、「第二の維新」を目指した「大正維新」と「昭和維新」を考える際に大本教の存在を無視できないことが分かる。
大本教は1892年に「科がかり」によって「筆先」を記した出口なおが1899年に女婿の上田喜三郎(後の出口王仁三郎)とともに創設した教団であり、1921年と1935年の二度にわたって当局に検挙されている。大本教の教団運営の特徴は出口なおの「筆先」と出口王仁三郎の新聞を中心とする宣伝活動であり、特に宣伝活動については、後に新興宗教の多くが模倣する手法であった。
ところで、大本教による「大正維新」論は社会の閉塞感を背景にしており、「不徹底に終わった明治維新を完遂するため」に「大正維新」の断行が目指されていた。しかし、「大正維新」の政策として掲げられたのが私有財産の没収、金本位ないし銀本位による通貨の廃止など、出口王仁三郎が「未知半解の学者連中から社会主義、共産主義と誤解された」と嘆くような、荒唐無稽なものであった。また、「日本の維新がアジアの維新となり、アジアの維新が世界の維新に発展する」という発想は、「物事は大本教から日本、日本からアジア、アジアから世界へと展開する」という大本教の「型」の思想を反映するとともに、日本にイタリアのファシスト運動を初めて紹介した浅野和三郎の「大正維新によって社会の矛盾は全て解決する」という考えの影響を受けていた。そして、大本教による「大正維新」論が一定の支持を集めたのは、主張の荒唐無稽さゆえであった。
1921年に起きた第一次大本弾圧によって大本教は従来の終末論的な教義や排外主義的な主張が影を潜め、普遍主義、世界主義に傾斜したそして、1924年には黒龍会の頭山満や内田良平などの斡旋により出口王仁三郎がモンゴルに入り、「蒙古王国」や「明光帝国」といった新国家の建設を目指した。出口王仁三郎の取り組みは実現しなかったものの、後の満洲国の成立の伏線をなすものであった。
そして、昭和維新を行うため、1931年10月には擬似的な軍隊組織である昭和青年会を結成し、1934年7月22日には昭和青年会を前衛とする昭和神聖会を組織した。昭和神聖会は絶対服従、ファシスト賛美などのファシズム的な傾向を濃厚に示しており、結成大会には現役の閣僚や有力な政治家、あるいは高級軍人などが参加したことは、強力な指導者と組織を待望する当時の社会の風潮を反映していたと考えられる。また、出口王仁三郎は「明日のムッソリーニ、ヒトラー」を目指して活動していたものの、暴力による体制の変革は求めず、無血での昭和維新の実現を目指していた点が、「昭和維新」を計画した他の人々や組織と異なっていた。しかし、当局が1年に及ぶ内偵の末、大本教を不敬罪と治安維持法違反で検挙した1935年の第二次大本事件が発生して大本教の「昭和維新」運動は終焉した。なお、第二次大本事件は宗教団体に治安維持法を適用した初めての事例であるとともに、日本の内地だけでなく上海や台湾、朝鮮半島など日本の植民地や影響下にあった地域でも大本教の関係者の検挙が行われた点で注目すべき事件であった。
このように、大本教が目指した「大正維新」や「昭和維新」は失敗に帰した。しかし、大本教が行おうとしたファシスト運動は当局が遂行することになり、ここに、不合理な運動のために官僚組織という極めて合理化された組織が活用されるに至った。そして、明治維新以来続いてきた「理想=未来」、「欠如=現在」という図式が、日露戦争の勝利という理想の実現によって完成したことで、人々は新たな理想を創出しなければならなかった。そのため、新たな理想として明治維新と記紀神話が活用され、共同体の自己同一性を保持するために「第二維新」の考えが活用されることになったのだった。

以上、徐氏が行った大本教を事例とした「大正維新」と「昭和維新」のあり方の検討によって、英語版『東洋経済新報』が創刊された1934年前後の日本の社会の状況、とりわけ庶民層の置かれた立場が克明に描出された。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】

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