第2回東アジア文化研究会 『勝海舟の中国観』(2013.5.29)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在−東アジアから」
2013年度 第2回東アジア文化研究会
勝海舟の中国観


  • 日 時: 2013年5月29日(水)18時30分〜20時30分
  • 場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー25階B会議室
  • 講 師: 上垣外 憲一 (大妻女子大学教授)
  • 司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)

 

勝海舟は、日清戦争の最中からこの戦争は名分のない戦争であるという談話を新聞紙上に発表し、下関講和条約の締結後も政府の外交方針を批判し続けた。
勝は幕末、軍艦奉行であった時代(1862年、文久二年)から一貫して東亜の三国が連携して西洋列強の東洋進出に対抗するという東亜同盟論者であり、この勝の東亜同盟論はその後一生を通じて変わらなかった。
勝海舟の日清戦争観は、『氷川清話』に収められている次の漢詩に意が尽くされている。

隣国交兵日。其軍更無名。 隣国兵を交ふるの日 その軍更に名無し

可憐鶏林肉。割以与魯英  憐れむべし鶏林の肉 割きて以て魯英に与ふ

鶏林は古代新羅王国の首都、慶州の美称であり、朝鮮全体をこの場合指す。日清があい争ったことで、ロシアとイギリスに朝鮮進出の隙を与えて、結局彼らに「漁夫の利」を占めさせることになることを、戦争のはじめの段階からというより、戦争の始まる前から勝は予想していたのである。

日清戦争中にこの詩を記し、公表した勝海舟に対し、「無名のいくさ」、名分の無い戦争とは、陛下の勅語も出たあとにあまりにもひどいではないか、と言ったところ、なにこれで全くかまわない、と勝海舟は批判をまったく意に介しなかったという。

日清戦争は「道義」という点から言って、全く正当化されない戦争であるとここまではっきり言い切った日本人はいなかった。それは隣国同士が相争うことはお互いの利益にならない「兄弟げんか」であるばかりでなく、日清両国の間に挟まれた韓国を犠牲にするという点で「弱いものいじめ」の戦争であるからである。

勝海舟は朝鮮の大院君と親交があり、朝鮮は衰えきっていていずれ滅びるという人がいるけれども、衰退もどん底まで行けば、復活の兆しも現れるものだとして、朝鮮の将来に期待していた。したがって日本の対朝鮮の方策は、朝鮮の自立、発展を助けることにあるのであって、どうせ自滅してしまう国であるから清国なりロシアに取られる前に、日本がこれを支配するのだ、という大陸進出論者の論に真っ向から対立するものであった。

小国の朝鮮でさえその自立への願いを尊重するべきなのであるから、潜在的に巨大な経済力を持つ清国は、たとえ今日一つの戦争に敗北しても、その経済的な力は日本は恐れるべきであり、これに軍事的に進出して領土を獲得しようともくろむより、「シナ五億の民衆は日本にとっての顧客」(『氷川清話』)であると考えて、貿易を盛んにして日中両国が共存共栄の方途を探るべきであるというのが、勝海舟の一貫した対中国関係論であった。

勝海舟が海軍の興隆に力を尽くしたのは、海上の安全を確保して、貿易の利益により各国に経済的繁栄をもたらすことが目的であって、戦争に勝利して武勲を輝かすのが目的ではない。外交によって戦争が起こらないように、平和を保って、貿易の利を計るのが日本の戦略であるべきなのであって、日清戦争を起こしてしまったら、その時点で日本、中国が共に傷つくことになるので、日本の取るべき道として既に失敗なのである。

こうした勝海舟の東アジア戦略は、まとまった形ではなく、日清戦争前後に勝海舟の屋敷を訪れた人がインタビューする形で、聞き取り、それが新聞紙上に発表されたものである。したがって断片的な発言から勝海舟の真意を読み取れない読者も多い。しかし、勝海舟の発言をつなぎ合わせてその真意を推測していくと、勝海舟が幕府海軍建設の代表的人物であり、維新後も海軍卿を勤めたという履歴とは違った、意外なほど平和主義者であった勝 海舟像が浮かび上がってくる。

それは、勝海舟がこの世で恐ろしいもの二人のうちの一人であるとしていた横井小楠の儒教的な道義、仁義の精神を基本として、日本が先頭に立って全世界の平和を実現するという構想、理想主義を基軸とする平和主義であったのである。横井小楠はしかし、同時に財政が豊かでなければ国は立ち行かないという信念の持ち主であり、国富の増大を国家の方針の基本とする実践においても、彼が指導した福井藩の財政立て直しに短期間に成功するなど、実際の国家運営にも優れた手腕を発揮した人物であった。理想としての平和主義と、その基盤としての国富の増大、これが勝海舟が横井小楠から受け継いだ国家経営論であり、その観点からして、日清両国が一致して東アジアの経済繁栄に協力することが勝海舟の理想であった。日清戦争は道義の上からも、国民経済の繁栄の上からも、勝海舟の信念に全く相反する出来事であったのである。

こうしてみれば、勝海舟の思想は、今日の日本国の平和憲法の思想と全く一致していると言って良いのである。福沢諭吉が今日日本の最高額紙幣の顔であるが、福沢は朝鮮での親日派のクーデターが失敗して以後、一貫して清国を敵視し、日清戦争に日本が勝利したときは感極まって泣いたと『福翁自伝』に書いているが、日清戦争を「無名の軍」と断じて批判して止まなかった勝海舟の思想こそが、今日の日本を指導する思想であるべきではないか。百年以上先の中国や朝鮮の復活を見通した勝海舟の慧眼を我々は尊重するべきなのである。

【記事執筆:上垣外憲一(大妻女子大学教授)】

講師:上垣外憲一氏 (大妻女子大学教授)

会場の様子