【開催報告】平成27年度科学研究費若手研究(B)採択 戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として第3回研究会(2016.02.29)2016/01/28

平成27年度科学研究費若手研究(B)採択
「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」

第3回研究会


日 時: 2016年2月29日(月)18時30分~20時30分
場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワーC会議室
報 告: 池井 優(慶應義塾大学名誉教授)
司 会: 鈴村 裕輔(法政大学)
主催:  鈴村裕輔(平成27-29年度科学研究費助成事業(若手研究(B))「戦前の民間組織に
主催: 鈴村裕輔  よる対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」[研究課題番
主催: 鈴村裕輔  号:15K16987]代表)
後援: 法政大学国際日本学研究所

 

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報告:池井優氏(慶應義塾大学)

2016年2月29日(月)、法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー25階C会議室において、研究会「1930年代の日米関係―野球とオリンピックを中心に」が開催された。本研究会は、平成27年度科学研究費若手研究(B)採択「戦前の民間組織による対外的情報発信とその影響:英語版『東洋経済新報』を例として」(研究代表者:鈴村裕輔、研究課題番号:15K16987)による第3回目の研究会であり、講師に池井優氏(慶應義塾大学)を招き、法政大学国際日本学研究所の後援の下に実施された。報告の概要は以下の通りであった。1930年代の日米関係は、米国が大恐慌に見舞われ、日本は満州事変(1931年)、五・十五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などを経て軍国主義化が進んでおり、両国友好の手段として民間外交の占める役割が大きくなった。その際、両国が選んだ方法の一つが、スポーツを通した親善であった。そして、1930年代の日本のメディアがスポーツを通した民間外交に果たした役割を見逃すことはできない。当時は、従来の新聞に加え、新たな活字メディアとしての雑誌、音声メディアであるラジオ、映像メディアである映画の果たす役割が高まるとともに、新聞界の内部でも、これまでのあり方に変化が生じてきた時代であった。まず、新聞そのものの変化としては、関東大震災(1923年)や金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1929年)などで小資本の新聞が撤退するとともに大資本の新聞の機械化が進み、速報体制が築かれるようになった。また、大阪朝日新聞や大阪毎日新聞などの大阪を発祥地とする大新聞が東京に進出し、全国紙が誕生することとなった。さらに、新聞が従来の反政府的な言論活動を行うオピニオンジャーナリズムから大衆の興味と関心を引き付けるためのマスペーパーへと変質したのも、1930年代であった。

新たな活字文化としての雑誌については、講談社が「安い、面白い、ためになる」を標語に掲げ、『キング』、『少年倶楽部』などのいわゆる「講談社八大雑誌」を刊行し、マスマガジンの時代を切り開いた。また、1925(大正14)年に放送が開始されたラジオは、当初こそ新聞の衰退をもたらすと懸念されたものの、読売新聞がラジオ欄を設けたことが象徴するように、1931(昭和6)年には新聞と提携して普及の度合いを高め、映画も無声からトーキーに移行することで大衆の娯楽としての地位を不動のものとした。

このような状況の中で、東京の三流紙であった読売新聞は、販売拡張政策の一環として自社で大リーグ選抜チームを招くこととなり、1931年にルー・ゲーリッグ、ミッキー・カクレーンら球界を代表する選手が来日し、1934(昭和9)年には日本でも高い人気を博していたベーブ・ルースの招聘に成功した。最初の招聘活動の際、読売新聞側は観光政策の一環として鉄道省に支援を依頼したものの拒否されたため、外務省に協力を要請している。読売新聞側の依頼に対し、当時の若槻礼次郎内閣の外相幣原喜重郎はニューヨーク総領事の澤田廉三に特別の支援を行う旨を訓電している。外務省が読売新聞への支援を決めたのは、読売側が「日米友好」に重点を置いて外務省と交渉したことに加え、幣原が親米派であり、民間主導による大リーグチームの招聘が日米関係の改善に資すると判断されたためであった。実際、ルースの来日は、1931年の満州事変の発生後、1932(昭和7)年に「満州国」が成立した際に米国が「満州国」を承認しなかったことで緊張の度合いが高まった日米関係の改善に寄与した。すなわち、ルースたち一行の歓迎会が日本政府首脳やジョセフ・グルー駐日大使らを交えて行われたことや、選手団が明治神宮を参拝し、あるいはルースや来日チームを率いたコニー・マックが米国向けのラジオ放送で日本での歓待の様子を伝えたこともあり、Sporting Newsが社説で「人種を超えた、野球による日米両国の交流」と評価したほか、New York Times、Washington Post、Timeなどの有力な新聞や雑誌がそろって好意的に報道したのであった。

一方、民間外交という点で1934年のルースの来日とともに見逃せないのがオリンピックである。例えば、1932年のロサンゼルス五輪は世界的な不況下で行われたため、日本から派遣された選手の規模は大きくなかった。しかし、選手の数は限られていたものの、南部忠平や西竹一らの活躍に対して米国の報道は好意的な内容であった。また、日本政府は国際連盟事務局次長であった杉村陽太郎を通して工作を行ったものの1935年の国際オリンピック委員会(IOC)の総会で開催地に決定しなかった。しかし、ナチスが国際社会に対する宣伝活動として最大限に活用した1936年のベルリン五輪の直前のIOC総会でヘルシンキを破り、ヨーロッパ以外で最初の開催地に選定されている。

こうした事例から1930年代における民間交流の意味を考える際、スポーツを通した民間交流は政治的、経済的な交流を補う手段であることが分かる。とりわけ、政治的な関係が悪化している時期には、スポーツによる交流が状況の打開に一定の効果を有していると言えるだろう。また、1930年代の日本でスポーツを通した民間交流が行われたことは、戦後にGHQが日本を占領した際に「天皇制と野球を通した民主主義の浸透」を政策の基本に据える伏線となった。あるいは、戦前のスポーツを通した交流は、日本と中華人民共和国との国交が断絶していた1971年に中国から卓球選手が来日し、両国の国交回復交渉を促進させたいわゆるピンポン外交として、戦後の文化交流と外交の中にも息づくことになった。

以上の池井氏の報告により、英語版『東洋経済新報』が創刊された1934年前後の日米関係が明らかにされるとともに、民間交流、民間外交が果たした実際の役割が示され、今後の研究の推進に有益な知見が得られた。また、今回も研究者以外にも一般市民が参加し、研究会は広く市民に開放された。
【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】

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