第3回勉強会 『近現代芸術における芸術と科学との相互作用について』(2014.2.28)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(4)「〈日本意識〉の三角測量−未来へ」
2013年度 第3回勉強会
近現代芸術における芸術と科学との相互作用について


 

  • 日  時  2014年2月28日(金)15:00〜17:00
  • 会  場  法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
  • 講  師  ガブリエル・デカマス氏(九州大学国際教育センター講師)
  • 通  訳  鈴村 裕輔 (法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)
  • 司  会  安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所長・文学部教授)

 

今回はガブリエル・デカマス氏(九州大学)を迎え、「近現代芸術における芸術と科学との相互作用について」と題して行われた。
デカマス氏はロンドン大学において視覚文化学の博士号を取得し、視覚文化学、人文科学、核技術、近代学、ポストコロニアル理論を専門としている。また、これまでに芸術家オルランのアシスタントを務めたほか、ニューヨーク近代美術館やグッゲンハイム美術館で学芸員として美術館実務に従事した経験を持つ気鋭の研究者である。
報告の概要は以下の通りであった。

一般に、芸術と科学とは互いに乖離していると考えられている。芸術と科学の乖離の問題に最初に焦点を当てた人物の一人がチャールズ・パーシー・スノーで、1959年にケンブリッジ大学で行った「二つの文化」と題された講演は、今日でも議論の対象となっている。スノーは講演の中で科学者が文学に造詣のある人々を軽視する態度や、科学者と人文学者の間の行動や話し方、振る舞い方の相違を指摘した。

一方、フランク・レイモンド・リーヴィスはスノーの議論に反論し、英国において「リーヴィス−スノー論争」と呼ばれる議論を巻き起こした。この論争の背景には冷戦構造があり、1957年にソ連がスプートニクの発射に成功したことで、スノーは英国の教育制度が学者に対して十分な機会を提供することに失敗したとみなしたのであった。

また、ユルゲン・ハーバーマスによれば、芸術と科学の分裂の起源は18世紀に起きた形而上学と宗教の没落に求められ、芸術、科学、正義という三つの相に分裂するとともに、専門家たちの支配下に置かれることになったのである。

ところで、2011年に起きた東日本大震災は人々に芸術と科学の関係を考えさせる機会をもたらした。例えば、「詩の礫」を書いた和合亮一は、詩を通して芸術と科学の関係を思索した人物であった。また、インド系イギリス人の彫刻家アニシュ・カプールと日本の建築家の磯崎新は、客席に被災地から入手された木材を利用する移動式の演奏会場を制作した。しかしながら、日本には楽観主義が根強いようで、「プロジェクトFUKUSHIMA!」という音楽祭を催した大友良英は、肯定的な力としての芸術と否定的な力を持つ科学との調停を試みたのであった。

芸術と科学の本質について検討した思想家の一人がマルティン・ハイデガーであった。ハイデガーは技術の本質をGestell(徴発、集立)として否定的に捉え、芸術の本質を、技術の否定的なあり方を「救う力」と考え、技術と芸術との対立を描いた。それとともに、ハイデガーは芸術と技術とが完全に乖離しているのではなく、むしろ芸術が技術の不足する点、あるいは否定的な側面を補うと考えたのであった。

また、1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故に遭遇した人々の真実の姿を描こうとしたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、住民の声を記録することによって、放射線という目に見えない対象を可視化することに成功した。その意味で、アレクシエーヴィチは、ジャン=フランソワ・リオタールが「表現し得ないものを視覚的な方法で明瞭に示すもの」と定義した芸術の役割を実証したといえる。

しかし、技術は経済的な理由からよりよい印象を人々に与えることが必要となっており、危険と思われている原子力業界で好感度を向上させるために様々な方策が採られていることは、技術と芸術の関係を考える上でも重要な意味を持っている。そして、リオタールは芸術が「救う力」を本質とせず、美術品への投機という現象が示すように、芸術の持つ崇高の運動は資本主義の影響によって資本の動きと重なり、芸術も技術と同じ「資本主義の論理」に従っていると指摘する。

これに対し、「個体によって現象が生じる」という考えとは異なる、「現象によって個体が存在する」、あるいは「同一の対象であっても媒介物によって見方が異なる」というあり方こそが、カレン・バラードが提唱した「内的な相互作用」(intra-actions)の概念なのである。すなわち、バラードは現象と現象を観察するための装置が存在論的に不可分であることを指摘しているのであり、このようなバラードの考えによって、われわれは芸術、科学、西洋、東洋といったものがそれぞれに独立して交渉を持たないのではなく、「内的な相互作用」によって互いに影響を受けていることを知るのである。

それでは、「内的な相互作用」としてはどのような事例が挙げられるだろうか。アフリカの彫刻がキュビスムと近代芸術に大きな影響を与えたことなどは、芸術における「内的な相互作用」の一例である。そして、文化を超えて相互に影響を及ぼしあうというあり方を考えるなら、日本とフランスの間にも「内的な相互作用」が存在することが分かる。すなわち、日本の浮世絵がフィンセント・ファン・ゴッホに与えた影響や、クロード・モネの日本への傾倒などは、日本とフランスとの間の「内的な相互作用」の顕著な事例といえよう。一方、原田直次郎の『龍騎観音』(1890年)や本田錦吉郎の『羽衣天女』(1890年)などが西洋の宗教画に触発されて日本的な題材を描いていることは、西洋の芸術が日本の芸術に影響を与えた例である。

あるいは、芸術と科学の間の「内的な相互作用」については、エミール・ゾラがLe Roman expérimental(『実験小説』)の中で霊感の源として科学に言及していること、ヴィクトール・ユーゴーがL’art et la Science(『科学と芸術』)の中で、芸術と科学の共生関係を理論化したことが挙げられる。そして、東洋と西洋における科学の発展の違いのため、日本ではゾラやユーゴーに類する事例は乏しいものの、芸術と技術との内的な相互作用は存在したのである。

確かに、芸術と科学の乖離を唱えたスノーの指摘は適切である。しかし、われわれは芸術と科学、あるいは現在と過去における西洋と東洋との間に「内的な相互作用」が存在することを認めなければならない。実際、ヨーロッパと日本の場合に限っても、われわれは相手の文化によって侵略されるとともに侵略し、影響するとともに影響されてきたのである。そして最も重要なことは、われわれの誰もが、技術による災害を直視しなければならなかったということであり、その意味で、われわれは、21世紀にはそぐわない国家と国民のアイデンティティという問題を生み出す「よそ者」なのではなく、むしろ兄弟姉妹なのである。

芸術と科学、あるいは西洋と東洋の関係を乖離ではなく相補的、さらには「内的な相互作用」という観点から捉えなおすデカマス氏の論考は、二元的に理解されやすい事柄に備わる本質的なあり方を考えるための重要な手がかりを示したといえるだろう。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】

左から:安孫子信所長(司会者)、鈴村裕輔氏(通訳者)、 ガブリエル・デカマス氏(講演者)

会場の様子