第2回勉強会 『西田に於ける包含の論理の図式的説明』(2013.12.16)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(4)「〈日本意識〉の三角測量−未来へ」
2013年度 第2回勉強会


西田に於ける包含の論理の図式的説明
    

日  時  2013年12月16日(月)18:30〜20:30 

会  場  法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

講  師  ジャサント・トランブレー氏(北海道大学文学部客員研究員)

司  会  安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所長・文学部教授)

 

左から:安孫子信所長(司会者)、ジャサント・トランブレー氏(講師)

 今回は、北海道大学文学部客員研究員のジャサント・トランブレー氏を招き、「西田に於ける包含の論理の図式的説明」と題して行われた。
トランブレー氏は1990年にカナダのトロント大学で宗教哲学の博士号を取得した後、近現代の日本哲学、とりわけ西田幾多郎の哲学の研究に従事している。これまでにIntroduction à la philosophie de Nishida (Paris, L’Harmattan, 2007)、Auto-éveil et temporalité. Les Défis posés par la philosophie de Nishida (Paris, L’Harmattan, 2007)、L’Être-soi et l’être-ensemble. L’Auto-éveil comme méthode philosophique chez Nishida (Paris, L’Harmattan, 2007)などの著作を上梓し、フランス語圏における数少ない西田哲学の専門家の一人として活動している。
報告の概要は以下の通りであった。

西田幾多郎の哲学は、独特で晦渋な文体と言葉の用い方の独自さにより、しばしば難解であるとされる。実際、小林秀雄や小林敏明は西田の文体が明快さを欠くとして批判している。一方、下村寅太郎が「西田の言葉は日本人の魂を語る」と評することを考慮するのなら、確かに西田の文体は他の思想家との類似性を見出しにくく特殊ではあるものの、概念的な体系を築き上げるだけでなく日本語を通して自らの哲学を語ったといえよう。そこで、今回は西田哲学を理解するための方法として西田の文体から出発して西田の哲学的な体系の説明をしようと思う。
西田の哲学と思索を考える際の出発点となるのが、「に於てある」という表現である。「に於てある」とはあるものは「何かに「於てある」」ということを意味しており、「ある」ものは内容を示している。そして、「に於てある」は「於てある場所」と「於てあるもの」の考えである。それでは、「於てある場所」とは何であろうか。西田は「物の存在を認めるため、於てある場所という如きものが考えられねばならぬ」と述べており、「一般なるもの」が「於てある場所」となることはなく、「於てある場所」は常に「於てあるもの」との間の関係の中で成り立つのである。この関係は、例えば、「教室は大学という場所に包含される内容であるが、大学は所在する土地という場所に包含される内容となる」というあり方からも理解される。そして場所と内容の包含関係を示すために西田がどのような動詞や助詞を用いたかに注目するとき、言葉の用法の特徴が分かる。すなわち、場所の立場から見た包含を示す動詞としては、「包む」(「知るということは先づ内に包むということでなければならぬ))、「含む」(「意識は・・・・・・対象を内に包む」)、「有つ」(「真に自由なる自己は自己自身の内容を有たねばならない」)といった単語が使われ、「の中に」(「現在は深く深く我の中に入って行く)、「に於て」(「有るものは何かに於てある」)といった助詞が用いられている。
ところで、西田の文章の中には、場所に関する表現は多いものの、内容を示す概念は、「所与」、「個物」、「ノエマ」、「対象」、「特殊」、「於てあるもの」、「有るもの」などで、数としては決して多くない。しかし、これは、西田が内容を重視していない、あるいは内容が西田の哲学の対象とならないためではなく、むしろ内容は常に内容なのではなく、「教室はわれわれにとっては場所だが学校にとっては内容になる」という事例が示すように、絶えず場所との関係が変わるためである。そして、内容と場所との関係について、西田は「結合」、「即」、「矛盾的自己同一」、「創造」、「弁証法」、「形成」、「対立」、「非連続」、「限定」、「表現」、「否定」、「関係」、「統一」といった言葉を用いて説明を行ったのである。このような言葉の使い方からも分かるように、西田にとって場所と内容の関係は静的ではなく、動的である。この動的な関係は、ヨハン・セバスチャン・バッハのオルガン曲である「前奏曲とフーガ」BWV548の冒頭の、Eの音から始まって半音階的な下降と上昇的旋律とが交互に現れる箇所を通して理解することが出来るだろう。すなわち、個物、あるいは真の実在から出発して内容とういより具体的な内容への超越と場所というより抽象的な方向への超越という二つの動きを示すのである。
このように、文体から出発して体系へと至ることは、西田の哲学の枠組みと構造を知るための重要な手段といえるだろう。周知の通り「場所」はプラトン、アリストテレス以来の西洋哲学における重要な概念であり、その意味で、西田は西洋哲学の伝統的な問題に取り組んだのである。その際、西田は主語の明示といった西洋の言語の影響によって変質した近代の日本語によって思索し、自らの哲学的言語を創造しようとしたのであった。これは、日本語によって西洋の哲学を紹介するというだけではなく、日本語によって自らの哲学の体系を確立しようと試みたことを意味する。そして、思想が言語に先立つことも、言語にともなって思想が生ずることもなく、むしろ言語と思想は互いに影響を与えながら同時的に発展するのであり、それゆえに、西田の言葉を分析することによって、西田の哲学をよりよく理解することが可能になるのである。
日本語を母語とする者にとっては単に難解であるかもしれない西田の哲学的な論考を文法的な特徴に即して検討するという手法は、日本語を母語としない外国人であるがゆえに可能な着想かも知れない。思想と言葉、そしてそれによって生み出される対象と主体との関わりを考える上で、トランブレー氏の報告は示唆に富む内容であると考えられた。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】

 

会場の様子