第7回東アジア文化研究会 『何香凝と日本留学―革命への関わりと美術との出会い』(2013.11.22)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在−東アジアから」
2013年度 第7回東アジア文化研究会

何香凝と日本留学
—革命への関わりと美術との出会い


 

  • 日 時: 2013年11月22日(水)18時30分〜20時30分
  • 場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階国際日本学研究所セミナー室
  • 講 師: 竹内 理樺(同志社大学助教)
  • 司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)

1878年に香港の裕福な家庭に生まれた何香凝は、幼い頃に纏足を拒み、当時の女性には珍しく「天足(纏足をしたことのない自然のままの足)」の女性であったが、その「天足」が縁となり、アメリカ華僑で後に国民党左派の中核となった革命家の廖仲愷(1877―1925)と結婚し、1902年末に夫婦で前後して日本に留学した。

当時、在日中国人留学生の中には国外にあって救国の志を強める者が少なくなかったが、何香凝も留学後間もない1903年6月、留学生同郷会の発行した雑誌『江蘇』に「敬んで我が同胞姉妹に告ぐ」という文章を発表し、中国人女子留学生に対し、数千年来の束縛を破り、みずからの手で自由と幸福を獲得し、国家の再興のため立ち上がるよう呼びかけた。その後彼らは留学生集会で日本亡命中の孫文と出会い、その思想に共鳴して革命活動に参加するようになり、革命家・政治家としての第一歩を踏み出した。夫婦は当初、学校の寄宿舎に別々に住んでいたが、一軒家を借りて自宅を革命活動の拠点として提供し、1905年8月に孫文が中国同盟会を結成すると、何香凝は最初の女性会員となった。当時は革命活動に参加する女性はまだ少なく、何香凝は二人の子を産み育てながら、孫文の要請で日本女性の使用人を雇わず、家事全般から同盟会の集会の接待、孫文宛の秘密文書の受け渡しなどの通信・連絡の任務を担い、孫文の強い信頼を得るようになった。そのため、1925年の孫文の死にあたり、何香凝は遺嘱の証人の一人となり、また、孫文自身から宋慶齢夫人の後事を託された。日本留学期からの孫文との強い結びつきは、彼女のその後の政治家としての道を方向づけることになった。孫文の死後間もなく夫の廖仲愷が暗殺されると、それまで女性運動の指導者として政治に参加していた何香凝は、夫の政治的地位を受け継ぐこととなり、その政治的役割は重要性を増し、夫と孫文の遺志を継承し、彼らの目指した国家と社会の実現のため尽力した。

何香凝は日本に留学後、東京女子師範学校を経て日本女子大学教育学部に入学したが、やがて体調不良と出産のため退学に至り、その後、女子美術学校で日本画を学んだ。美術学校への入学は、孫文が中国国内での武装蜂起時に必要な軍旗や告示のデザインをする人材を求めていたという理由もあったが、何香凝は軍旗のデザインだけでなく縫製・刺繍もこなし、その後晩年に至るまで終生画家として画作を続けた。また、夫の死後、国民党内で独裁を強化する?介石と対立し、政治の第一線と距離を置くようになると、画家であることが彼女の立脚点となり、自作の絵画を売却することで生計を立て、絵画を通じた活動を行った。その画風は日本で学んだ日本画を基盤とし、やがて伝統的な山水画や水墨画へと移行したが、特にフランス、ドイツに滞在した1920年代末からの二年間ほどの期間は、画作に没頭し、当時の絵画には西洋画の影響も感じられる。1931年に満州事変が勃発すると、滞在していたフランスから急遽帰国して上海で書画展覧会を開き、書画の「義売(慈善販売会)」を通じた抗日救国活動に従事したが、「何香凝主催」と銘打った書画展覧会の反響は大きく、彼女の統率と影響力のもとで予想以上の成功をおさめ、社会的に大きな影響を与えた。その後、何香凝はたびたび書画展覧会を主催したが、この活動は慈善販売会、すなわち抗日救護活動を支えるための募金活動の役割を負っただけでなく、一般大衆に国家の危機を訴え、抗日と救国のため立ち上がるよう世論を喚起する役割も担っていた。

何香凝の絵画にはさまざまな題材が見られるが、特に1910年代に描いた「獅子」や「虎」と、1920年代に描いた「梅」の題材が代表的なものとして評価される。「獅子」の絵は、彼女が1913年に描いた絵に、中国同盟会時代からの同志であった詩人の柳亜子(1887—1958)が後に『国魂』という画題と「国の魂が眠れる獅子の目を醒めさせる」という題詩をつけたことから、彼女の描く獅子の絵すべてに「覚醒しようとする獅子」のイメージが与えられ、代表作として注目されるに至ったと考えられる。しかし、獅子や虎などの動物画は元来、日本留学中に師事した四条円山派の日本画家、田中頼璋(1868—1940)から学んだ画題であった。

何香凝自身が日本留学期について語った論述は多くはなく、孫文との関係や、当時の革命活動に関する記述がほとんどであったが、中華人民共和国建国後の1961年に著した回想録「我的回憶」には、女子美術学校で教えを受けた端館紫川と、個人的に師事していた田中頼璋から熱心な指導を受けたことが記されている。また、日本女子大学在学中には、キリスト教(プロテスタント)の牧師であり日本の女子高等教育の第一人者であった校長の成瀬仁蔵(1858—1919)から、学習面で大きな支援を受けたことも言及されている。何香凝にとって日本への留学は、孫文と出会い、革命家・政治家として歩み始めた出発点であり、また、彼女の画家としての基盤も日本留学中に築かれた。さらに、日本で教育の機会を得て西洋の自由・民主の思想や女性解放の思想に触れたことにより、彼女独自のジェンダー観や救国観が形成され、女性運動を指導する際の思想的基盤となったと考えられる。

【記事執筆:竹内 理樺(同志社大学 助教)】

講師:竹内 理樺氏 (同志社大学グローバル地域文化学部 助教)

会場の様子