第2回みちのくワークショップ近代編 『近代東北が見た<日本>』(2013.11.15)

「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」
アプローチ(1) 「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」

第2回みちのくワークショップ近代編
近代東北が見た<日本>

  • 開催期間 : 2013年11月15日(金) 18時30分〜21時00分
  • 講   師 : 河西 英通(広島大学大学院文学研究科 教授)
  • 会   場 : 法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー25階B会議室
  • 司   会 : 小口 雅史(法政大学文学部 教授)

東北が語られるとき、「貧しさ」は避けられない。しかし、問題はいかに貧しいかではなく、いかにして貧しいかということである。自然的宿命的な説明ではなく、人為的政策的な説明が求められる。本報告では、従来、東北が総じて〈見られる〉側であっても、〈見る〉側ではなかったこと、歴史的存在としては従属変数的位置にあったことを重視して、近代東北からどのような〈日本〉が見えてくるのかを明治維新から戦後まで史料に沿って追ってみた。

「白河以北一山百文」は極度に東北を侮蔑したフレーズだが、反発も見られた。たとえば、自由民権運動期に『奥羽新報』はいつの日か「西南の人一山百文」となる日が来るだろうと予測したし(1881年1月22日「東北新報の論説を読む」)、日清戦争期の『東北少年』は「復讐的思想」を隠そうとはしなかった(1895年1月1日「維新前に於ける東北の形勢を論じ併せて其将来を卜す」ほか)。それは第二維新への期待でもあった。第二維新論は反藩閥政府の思想として広く見られたが、東北発第二維新論はあくまでも東北人を主体とするところに特徴がある。福島県出身の著名な民権家河野広中の主張をはじめ、青森県の『東奥日報』などにも数多くの東北発第二維新論が見られる(1889年8月3-10日「東北団結論」ほか)。

強い使命感は「東北精神党」の結成にもつながった。『岩手公論』によれば、岩手・青森・福島・新潟各県の有志によって盛岡を本部に結成された東北精神党は「東北の志士を以て結合し、朝野の藩閥を攻撃し、以て自由平等の大義を明にするものとす」「実利に基つき、実業上其他百般の事柄に付き、東北人士固有の責任を全ふせんことを務むるものとす」との目的をもっていた(1890年12月9日「東北精神党」)。さらに国際的な視野における自己認識を生んだ。『東北健児』は東北=スコットランド論を示しているが(1897年10月21日「東北大勢論」)、より鮮明に東北はスコットランドを見習えと主張したのは明治期を代表する言論人陸羯南である(『日本』1901年10月3日「北日本と北英国」)。
強い使命感と東北振興の熱意は20世紀に入っても続く。盛岡出身の歴史家原勝郎は「既に新文明の余弊も生じて居るが、此明治の新文明は、主として南人の手によつたものであれば之を救済するのは北人の天職である」とのべ(『岩手日報』1911年1月1日「北人の天職」)、創刊された『東北評論』は明治維新以後の政治経済状況を挽回する東北振興の必要性を訴えた(1917年1月「発刊之辞」)。しかし、東北も同質一体ではなかった。「一口に東北人と言ふと雖ども、盛岡人と仙台人との性情の差異は、必ずしも盛岡人と鹿児島人との差異より近しとは言ふべからず」とは石川啄木の弁だが(『岩手日報』1909年10月6日「百回通信」)、北端の青森では「青森県は世界中の資本国に於て、最も文化の程度の低いと言はれてる日本国の中でさへ問題にならない野蛮国だと言はれてゐる。お恥かしい話だが本当だから仕方がない」と語られ(『胎盤』1922年1月「胎盤雑記」)、豪雪地帯山形県選出の代議士松岡俊三からは「雪国解放」が叫ばれた(『惨酷を極むる雪害地の地租解剖』1931年)。

東北から見た〈日本〉には民族問題と植民地問題があったことも重要である。民族問題とはアイヌ史である。戦間期における青森県出身の芸術家秋田雨雀の認識は象徴的である。彼は北東北におけるアイヌ史の存在に言及して、「私達の生れた国がどんなに日本の中心から遠ざかつたところにあるかといふこと」を指摘している(『西北新報』1937年1月1日「アイヌ人種に間違はれた話」)。しかし他方では同じく青森県出身の詩人副士幸次郎が津軽地域をもって「日本中央に連関する極限地帯」とみなしている(『郷土と観念』1942年)。つまりアイヌ民族の存在をどう東北史に組みこむかで、まったく異なる〈日本〉像が描かれているのである。植民地問題とは東北からの満蒙移民問題であり、この過程で東北人=蝦夷論が否定され、逆に大和民族論を設定することで、東北人=「開拓の戦士」イメージが提唱されている(『東北人と大東亜的発展』1942年)。東北にとって、アジア・太平洋戦争とは「生命体としての日本」(『青森県文化』1942年4月「青森県文化運動の新発足に当りて」)「純日本としての東北」(山口弥一郎『東北の村々』1943年)「アジアの東北」(『月刊東北』1945年1月「新しき郷土」神保光太郎)の発見の契機であり、東北と〈日本〉が一体化した時間であった(『東奥日報』1944年9月24-27日「戦争と地方文化」)。そうした至福は8・15を境にいったん解体無化するが、新生日本建設に向けて東北は再び「枢軸」「根本」の位置につく(『東北文庫』1946年1月「混沌の中に立つ者」森嘉兵衛、『青年ふくしま』1947年4月「郷土の青年諸君へ」鈴木安蔵)。東北論は戦後経済復興に引き継がれ、植民地を失った日本の資源供給地として東北は急速にクローズアップされる(1951年東北開発研究会、1956年東北開発三法、1961年東北経済開発センター)。その究極が3・11によって露呈した「国内植民地」「原発植民地」としての東北であっただろう。

【報告記事執筆者:河西 英通(広島大学大学院文学研究科 教授)】

報告者:河西 英通氏
報告者(広島大学大学院文学研究科 教授)

会場の様子

司会:小口 雅史氏
司会(法政大学文学部教授)