第5回東アジア文化研究会 『傅抱石の日本留学とその影響―傅抱石書簡・金原日記を読む』(2013.9.25)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在−東アジアから」
2013年度 第5回東アジア文化研究会

傅抱石の日本留学とその影響
—傅抱石書簡・金原日記を読む

日 時: 2013年9月25日(水)18時30分〜20時30分
場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー25階B会議室
講 師: 廖赤陽(武蔵野美術大学教授)
司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)

一.問題意識と基本史料
傅抱石(1904-1965)は現代中国を代表する中国画家・篆刻家・美術史家・美術理論家・美術教育家の一人である。1932−1935年日本留学、1934年帝国美術学校研究科に入学、東洋美術史家・美術理論家・美術教育家である金原省吾(1888-1958)に師事した。
傅抱石の日本留学は、美術史家と画家の個人としての成長に大きな影響を与えたのみならず、中国現代美術史、近代以来における中国人の日本留学史、中国知識人の日本観、及び日中文化交流史ないし日中関係史,近代・西洋と東アジアという地域の理解など、多く課題を生み出している。 傅抱石本人は日本留学の経歴についてほとんど語らなかったが、本研究は、武蔵野美術大学所蔵の傅抱石から金原省吾宛ての書簡(1934.1〜1956.9、延べ20通。以下、書簡と略す)及び同大学翻刻の金原省吾日記(1934.3〜1948.6延べ96日、以下日記と略す)の解読を通して、傅抱石の日本留学とその影響の解明を試みる。
二.傅抱石の日本留学
傅抱石の第一次日本留学は1932年9月、景徳鎮陶芸改進の名義での日本留学であった。 その後、1933年8月再び日本へ、翌年3月、帝国美術学校の研究科に入学を許可され、金原省吾に東洋美術史と絵画理論、東洋美学、清水多嘉示に彫刻、川崎小虎、山口逢春、小林巣居に絵画を学んだ。留学中執筆したものは(帰国の後公刊されたものを含む)「論顧愷之至荊浩之山水画史問題」、 「苦瓜和尚石濤年表」など論文六通、金原著書の中国語訳『唐宋之絵画』、著書『中国絵画理論』、『刻印概論』(『摹印学』の改定)などの著訳書のほか、1935年5月に銀座松坂屋で個展を開き、山水、人物、花鳥、書、篆刻(印章)など177件展示され、その他、印譜、篆刻拓本190点を創作し、精力的な活動を行った。翌月、母の危篤の知らせを受け急遽帰国その後、徐悲鴻の招聘により中央大学芸術科の講師となり、中国美術史と国画概論の授業を担当。
三.傅抱石と金原省吾
書簡と日記から見れば、留学中、傅抱石は金原省吾と非常に密接な関係を保ち、多い時には2〜3日一回金原宅を訪ねる。傅は自らの家庭事情・経済事情、個展の会場、推薦状、作品の題賛、アパート探し、帰国後の仕事、生活、悩み、書籍・論文の寄贈、薬品や画材の購入など、何でも金原に相談した。研究上、金原の指導は主に「画論は一冊づつの古典研究とその整理」(日記1934.4.13)を通しての理論訓練と史料の実証整理であり、また、傅の論文の指導と添削を行って日本での発表先を推薦し、個展開催を全力で応援した。
同時に、傅も金原に中国画の技法の説明を行いその著作の訂正・翻訳及び中国での出版紹介などを行い(書簡1934.8.15)、まさに学問を切磋琢磨し、教学を相長する師弟関係であった。日中戦争中金原省吾は度々「抱石君をどうしているか」(日記1947.10)と傅抱石への心配を日記に記し、戦火を経て、十年ぶりに傅抱石からの手紙が届けられ(書簡1947.6.19)た時、金原は「よんでいて涙うかぶ」(日記1947.7.4)と記した。
四.日本留学が傅抱石に与えた影響
1.学術研究における日本留学の影響
金原省吾は傅抱石の『中国絵画理論』のための序文を書く時、「抱石君自身の意見がない。そして皆古書からの摘要だ」(日記1934.10.22)、と自らの感想を述べた。しかし、帰国の後、地味な実証研究と優れた理論分析を結んだ研究を次から次へと世に送り出し、傅抱石は美術史家として著しい成長を見せた。彼の研究の重心は二つあり、一つは中国美術の転換期の東晋六朝であり、もう一つは円熟期の明清交代期である。その出発点となる二本の論文――「論顧愷之至荊浩之山水画史問題」・「苦瓜和尚年表」はいずれも日本留学期間で執筆したものである。
2. 絵画創作における日本留学の影響
1942.10、「傅抱石教授画展」(壬午重慶個展)が開催され、画壇における彼の名声を遂に確立された。その画風は、銀座松坂屋個展作品と驚くほど異なる。留学前、石濤の模倣や文人画の形式を抜けられず(独学で特定の師承と画派に属していないことも、のちに日本画壇の影響を受け入れやすい理由の一つと考えられる)。留学後、学術的な研究及び日本画壇から受けた刺激は数年間の沈澱・消化を経て、遂に四川の山水の霊気に孕まれ、「悲家国之顛破・不肯俯仰事人」という強い抗戦意志とともに画風を一変して大成の域に達した。
3.傅抱石の日本「情結」(コンプレックス)
留学前、傅抱石は中国画の伝統を固守する姿勢を見せたが、留学後、彼は日本画の革新と中国画の停滞を鑑み、中国画の改革の緊迫性を唱えた。同時に、日本に学ぶことを日本化ではなく、中国が失われたものを取り戻すに過ぎないとも強調した。抗日戦争中、彼は第三庁に加わり積極的に抗日宣伝活動を行ったが、その作品は、民衆好みに合わせた抗日宣伝画ではなく、隠士・仕女・屈原・蘇武・石濤和尚などの歴史人物や祖国の山河であり、高古の風格を漂って、孤高・虚無の中に凛とした内在する緊張感を満ちている。金原省吾はかつて中国の国民性と芸術に関して、「天」・「老」・「無」・「隠」・「淡」などと捉えるが、傅抱石はその一文を中国語に訳し、また老境に満ちた筆を以てこれを表現した。彼はさらに中国美術の消極と譲歩の中から「雄渾」・「樸茂」・「沈着」・「潜行」及び高尚な人格形成などの前進的・積極的価値を見出し、これに抗日戦争必勝の信念を託した。

【記事執筆:廖赤陽(武蔵野美術大学教授)】

 

講師:廖赤陽氏 (武蔵野美術大学教授)

会場の様子