第2回研究会(2012.9.22)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」

2012年度 第2回研究会

報 告  前島 志保 (法政大学経営学部専任講師)

              衣笠 正晃 (法政大学国際文化学部教授)

日 時  2012年9月22日(土) 13:30 – 17:00

会 場  法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階国際日本学研究所セミナー室

 

発表の様子:前島 志保 専任講師

 

前島 志保
「戦間期『主婦之友』における「家庭」と「日本/国家」

戦前の『主婦之友』は、「中流層における主婦の形成」や「戦時協力批判」の文脈で語られることが少なくなかった。しかし近年の調査では、同誌の読者は中流女性だけではなく、幅広い層の男女に渡っていたことが判明している。また、初期の同誌は国家/日本への言及が少ない。そこで、本発表では、大正期から昭和初期にかけての『主婦之友』における家庭に関する言説を取り上げ、同誌の人気の理由の一端を内容面から再考するとともに、そこにおける「家庭」と「国家/日本」との結び付きがどのように変化していったのかを、歴史的・社会的な状況の変化や主宰者・石川武美の思想的背景にも留意しながら、考察した。

その結果、初期『主婦之友』は、石川の穏健な進歩的家庭観を基調としながらも、それに限定されることなく、かなり幅の広い家庭観を提示していたことが分かった。また、同誌の記事は、独身者や男性、中流以下の階層の人々など、従来の家庭論では軽視されがちであった人々をも対象としていた。このように様々な考え方を持つ広範囲にわたる層の人々に訴えかける編集方針は、同時代、英国などの他の地域の出版界においても用いられた手法であった。また、厳格な性別役割分担の見直しは、同時期の米国でも見られた傾向であった。ただし、日本の場合は国家との結び付きが強いと言われている。

しかしながら、創刊当初数年間の『主婦之友』では国家と家庭を結び付ける傾向は希薄であった。そこではむしろ、人々に慰安を与える場としての近代的家庭像の提示に重点が置かれていた。また、石川自身の信仰やキリスト教関係雑誌で修業を積んだという経歴もあり、かなりキリスト教への言及が多かった。ところが1920年代半ばになるとキリスト教色は薄まり、逆に国家/日本と家庭の結び付きが強調されるようになっていく。これには様々な要因が考えられる。すなわち、1920年代に入り消費文化や大衆文化が発展する中で同誌の編集方針が漸次的に変化していき、また、石川の混合主義的な宗教観もあって、キリスト教的な側面が後退した。その一方で、1923年の関東大震災や1924年の皇太子成婚など様々な国家的事件(危機)やイベント(慶事)が重なり、国民としての団結(の必要性)が繰り返し意識化されていく中で、国家における家庭の役割の重要性が前景化されていったものと思われる。

【記事執筆:前島志保(法政大学経営学部専任講師)】

 

発表の様子:衣笠 正晃 教授

 

 

衣笠 正晃
「1910〜1920年代の国文学」

国文学研究史において1910年代から20年代(大正期)は、国文学研究が制度的に完成した世紀転換期と、日本主義イデオロギーの基盤となった15年戦争期のあいだにあって、谷間の時期と捉えられてきた。こうした常識に対し本発表では、アカデミアの中心であった東京帝国大学を主な対象に大正期の国文学研究の動向を分析し、意義の再検討をおこなった。

最初に注目するのは、国文学研究における世界文学的な関心の高まりである。東京帝大文科大学のカリキュラム改革により、外国語(2か国語以上)の試験合格と自由選択科目の履修が求められた結果、国文学専攻者も西洋文学から強く影響されるようになる。唯美主義的文学批評、人道主義的人生論が学生に流行し、松浦一ら若いスタッフの授業がその関心に応えた。世界文学への関心の高まりとともに、芳賀矢一以来の文献学としての国文学という基本理念が揺らぎ、文学研究における文献学と批評の方法論的対立が意識されるようになった。

また思想史というディシプリンの登場が国文学に影響を与えたことが考えられる。津田左右吉は一貫した構想に基づく日本文学史を完成し、村岡典嗣は『本居宣長』において芳賀文献学の後継者を自任した。また和辻哲郎は西洋文献学の観点から国文学者のテクスト校訂の問題点を指摘・批判した(『日本精神史研究』)。このような文献学の立場からの国文学批判は、昭和期に入ってからの池田亀鑑を中心とする、より厳密な文献学的国文学の登場の呼び水となった。

方法論的な混迷の一方で、大正末に国文学アカデミアは新たな展開を見せる。芳賀退官のあと国文学研究室主任となった藤村作は、関東大震災での被災に危機感を強め、「国文学ラヂオ講座」や新潮社『日本文学講座』など、メディアを利用した積極的な国文学振興策を主導した。その背景には中等・高等教育の拡大、それに並行した「文検」(文部省教員検定試験)受験層の拡大という当時の状況があった。このような国文学の大衆化は、1930年代以降における国民教化の方途を準備したといえる。

総括すれば、大正期国文学は1930年代、40年代における国文学の隆盛の基礎を作ったと考えられる。文献学と鑑賞批評との方法論的対立、そのなかで文学への主体的アプローチの模索は、のちの「日本精神」「日本的なるもの」の抽出へとつながる。また大衆化のなかで国文学は西洋的・エリート的教養の代替物としての地位を得ることとなった。

【記事執筆:衣笠正晃(法政大学国際文化学部教授)】

 

会場の様子