第4回東アジア文化研究会『19世紀における東アジア諸国の対外意識』(2012.7.11)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在−東アジアから」
2012年度 第4回東アジア文化研究会

19世紀における東アジア諸国の対外意識

日 時: 2012年7月11日(水)18時30分〜20時30分
場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアドナードタワー25階B会議室
講 師: 王 暁秋 (北京大学歴史学系教授)
通 訳: 張 玉萍 (東京大学教養学部兼任講師)
司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)

左より:王 敏 教授(司会)、張 玉萍氏(通訳)、王 暁秋教授

左より:王 敏 教授(司会)、張 玉萍氏(通訳)、王 暁秋教授

いわゆる対外意識とは世界情勢、国際関係、外国事情に対する観察・認識、及びそれに基づく判断・評価のことである。それは一国政府の外交方針(政策)や民衆の対外態度・行動のみならず、国内政策や変革方向の選択にも影響を及ぼしている。本発表では縦横比較の方法を駆使し四つの段階に分けて19世紀における東アジア諸国の対外意識を考査、分析、比較した。

一、19世紀初頭の華夷意識と鎖国
中国は東アジア文化圏の中心国であり、前秦代から華夷意識が次第に形成された。その中には、華夏中心の地理観と華夏中心の文化優越観が含まれている。それは儒学の「仁」、「義」、「礼儀」を価値標準とし、「内華外夷」、「貴華賎夷」、「華夷之弁」、「華をもって夷を変える」を価値目標とするものである。日本、朝鮮、ベトナムなどの諸国は東アジア文化圏の周辺に位置し、儒学の影響の下、それぞれに特有の華夷意識が生まれた。例えば、日本では、江戸時代に日本を中心とした華夷意識及び「華夷変体」の思想があった。朝鮮の李王朝では、統治者が朝鮮を「小中華」と認識していた。ベトナムの阮朝では、統治者がみずからを「南中華帝国」と称して、ベトナムを中心とする東南アジアの華夷秩序を構築した。
華夷意識が支配する中で、東アジア諸国では、19世紀初頭にそのほとんどが鎖国という対外政策を打ち出したが、内容と重点にはそれぞれ多少の違いがあった。

二、1840年代から50年代にかけての危機意識と世界への開眼
1840年代から50年代、西洋列強の武力侵略によって東アジア諸国全体に危機意識が生まれた。これは、国家の存続が脅威されることによって生じた一種の不安感であり、東アジア諸国はようやく世界に目を開き、次第に新たな世界認識を確立していった。
中国では、アヘン戦争の刺激を受けて、少数の「士大夫」(上層知識人)のあいだで危機意識が生まれ始めた。彼らは目を開いて世界を見つめ、国際情勢を理解し、外国の地歴を研究し、アヘン戦争で敗北した教訓を総括しようとした。林則徐の『四洲志』や、魏源の『海国図志』等がその例である。彼らは西洋の進んだ軍事技術の学習を主張し、「夷の長技を師とし以て夷を制す」というスローガンを打ち出した。しかし、最高統治者である清朝皇帝と官僚貴族たちは和議を迷信し、目先の安逸をむさぼり、改革に着手しようと思わなかった。
日本は資源が比較的乏しい島国であり、その危機意識は中国よりもいっそう敏感で強烈であった。中国で勃発したアヘン戦争は日本にさらなる警鐘を鳴らした。幕末日本の有識者は外国事情の把握と改革を求め、『海国図志』が日本に伝わった後、日本での刷られた刻印本は20種類以上にものぼった。朝鮮も外国の軍艦が侵入した際に危機意識が生まれたが、統治者はその「洋擾」が撃退されたのちには、進取の精神を失ってしまった。ベトナム・阮朝の明命帝も外国の情報を収集し、海防を固めようとした。

三、1860年代から80年代にかけての「洋務意識」と西洋への勉強
1860年代以降、西洋の衝撃をうけて、東アジア諸国は西洋人を蔑視と教化の対象とする華夷意識から西洋列強を勉強と交渉の対象とする「洋務意識」に転換した。
中国は第二次アヘン戦争後、西洋に学ぼうとする「洋務運動」を開始した。西洋製の銃砲などを購入し、軍事工業を建設し、民間企業を奨励し、海軍を作ったり、外国に留学生を派遣した。これは中国近代化の始まりだが、封建的な頑迷勢力による強固な反対に遭い、妨害された。同時に「中体西用」という指導思想が改革の発展を大きく制約していた。
日本は開国して間もなく、積極的に西洋の軍事を学ぶ「幕藩改革」に着手した。明治維新後には、西洋資本主義の政治・経済・文化・教育制度を全方面から勉強し取り入れた。そして、「殖産興業」、「文明開化」と「富国強兵」という三つの政策を打ち出すことによって、資本主義近代国家への転換を基本的に完成した。
朝鮮は1876年に日本によって開国を迫られ、開化運動を開始した。急進派は日本の明治維新をまねて、日本に依存して開国を図ろうとしたが、温和開化派は中国の「洋務運動」をまね、「東道西器」を基本理念とした緩やかな改革を主張した。しかし、やはり開化運動は保守的な儒学者によって反対された。

四、1890年代の競争意識と三つの道
1890年代に入ると、東アジアの国際情勢は激動し大分裂を起こした。そして、東アジア三国は、様々な要因の下で、最終的に各々異なった道を進んだ。
1894年から95年にかけての日清戦争は、日中「洋務競争」の終着点と言えるだろう。中国は敗北によって、深刻な民族の危機に陥った。清朝の維新派は変法・維新によってのみ中国を救うことができると認識し、光緒皇帝を鼓舞して日本の明治維新を模範とした「戊戌維新」を行った。しかし、新旧勢力の差は歴然で、やむなく失敗に帰し、清朝は自発的に変革する最後のチャンスを逃した。そして、中国は半植民地の深淵に陥ったのである。
一方、明治維新によって資本主義改革に成功した日本は、一歩一歩軍国主義の道を進んだ。同時に「脱亜入欧」という、西洋列強と共に東アジアの隣国を分割する発展方向を選択した。そして、日清戦争、日露戦争、韓国併合を相次いで起こし、ついにアジア唯一の帝国主義強国となった。
朝鮮でも各階級・派別が各々異なる対外意識を有して救国運動を指導した。東学農民戦争は、「逐滅倭夷」、「滅尽権貴」のスローガンを掲げるも、政府軍と日本軍に弾圧された。急進派は日本の支持の下、政変を発動して国王を軟禁し、閔妃を殺害して、民心を失った。1897年に朝鮮は国号を大韓帝国に改めたが、主権の独立は守られなかった。そして、1910年に『日韓併合条約』に調印し、完全に日本の植民地になった。

歴史的な啓発とは、世界の大勢と歴史潮流を明確に認識することが発展の方向を正確に選択する出発点であることである。外国に対する自大や自卑、あるいは盲目的排外や崇拝意識を克服し、独立、平等、友好、協力といった対外意識を確立しなければならない。そして、不断に改革・進歩し、向上すべく堅く決心しなければならない。外国勢力に依存した改革では、真の独立と進歩を獲得することはできない。一方、外国を侵略、抑圧することもまた真の自由と富強を得ることはできない。平和共存して、平等に互いの利益を促進する。交流と協力を強化し、共同発展を追求する。これこそが東アジアにおける国際関係の中で、唯一無二の正しい方向なのである。

【記事執筆:王暁秋(北京大学歴史学部教授・中日関係史学会副会長)】

講師:王 暁秋 教授

講師:王 暁秋 教授

佐藤 保氏(元御茶の水女子大学学長)

佐藤 保氏(元お茶の水女子大学学長)

会場の様子

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