第2回東アジア文化研究会『唐通事文化の過去と現在』(2012.5.30)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在−東アジアから」
2012年度 第2回東アジア文化研究会

長崎唐通事とその子孫


  • 日 時: 2012年5月30日(水)18時30分〜21時15分
  • 場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
  • 講 師: 陳 東華 (長崎中国交流史協会専務理事)
  • 司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所専任所員、教授)
左より:王 敏教授、陳 東華氏

左より:王 敏教授、陳 東華氏

講義の様子

講義の様子

会場の様子

会場の様子

近世の長崎は日本で唯一、中国・オランダとの貿易の窓口として繁栄を極めた。それを支えたのが唐通事と蘭通詞たちであった。彼らは長崎奉行所の地役人として通訳業務に携わるが、唐通事は貿易管理の職も担った。唐通事は基本的には、長崎在留の唐人(中国人)を起用し、その職は世襲とされた。貿易の拡大に伴い唐通事会所が設置されるが、その規模の大きさは世界的にも稀なものであった。唐通事のもう一つの大きな役割は、幕府にとって極めて重要な海外情報の収集で、彼らはその第一線で働いた。また、中国事情に通じた彼らは、長崎における中国文化の普及と定着の橋渡し役でもあった。やがて幕藩体制が崩壊すると通事制度も終結した。その後の新しい時代の波の中で、彼らの多くは持前の能力を生かして、外交、教育、経済などの分野に進出して活躍することになる。

(一)江戸時代に活躍した唐通事
1604(慶長9)年、馮六(平野家の祖)が最初の唐通事に任命され、以後唐通事制度は1867(慶応3)年の解散まで263年間つづく。この間、唐通事は延べ1644人(実826人)を数えた。参考文献は林陸朗著「長崎唐通事」。

唐通事制度
1.長崎奉行配下の地役人として、日清貿易の管理・通訳の仕事を担う
2.1672(寛文12)年、大通事4人・小通事5人制となり、以後「訳司九家」として固定化
3.1751(宝暦元)年、唐通事会所設置(現在の新興善小学校)
4.通訳言語は主に南京語・福州語・?泉語
5.基本的に在宅唐人を採用、世襲制
6.家筋約70家 (宮田安著「唐通事家系論攷」に系図が紹介されている)
A 本通事(大通事・小通事・稽古通事) 約40家
B 唐年行司系(唐年行司・同見習)    約10家
C 内通事系(内通事・同小頭.唐船請人) 約20家

唐通事の任務
1.唐人関係の通訳業務
2.来航唐船の対応管理
3.交易業務の管理
4.唐人・唐館の秩序維持
5.唐船風説(海外情報)の聴取・報告
6.信牌(唐船の貿易許可書)の発給

唐通事の日本名
唐人が唐通事職に就くとき、日本名を名乗ることが求められた。多くは祖籍に因む地名をとって姓とした。たとえば、陳は潁川(えがわ)、劉は彭城(さかき)、兪は河間(かわま)、魏は鉅鹿(おうが)、徐は東海(とうかい)、張は清河(きよかわ)、高は渤海(ふかみ)というように。これらは、彼らが長崎に来る直前の福建や浙江などにはなく、それより遥か数百年前のルーツの地にあった地名である。彼らの心鏡を垣間見ることができる。ほかに、妻の姓を名乗った唐通事もいた。

(二)長崎唐通事の子孫
慶応3年に唐通事制度が廃止された。73人の最後の唐通事たちの多くは明治新政府などに登用され、外交・教育・実業などの分野で活躍した。以下に盛山隆行氏の論文「幕末維新期の長崎唐通事」の一部を紹介する。

【外 交】
鄭 永寧(1829〜1897) 第3代・第5代清国代理公使(特命全権大使相当)、外務省大書記官。
平井希昌(1839〜1896) 長崎裁判所通弁役頭取、清国派遣特命全権大使副島種臣附属随員、内閣賞勲局主事、米国派遺弁理公使。
頴川君平(1852〜1898) 米国ニューヨーク領事、大蔵省少書記官、紳戸税関長、『訳司統譜』編纂発行者。
柳谷謙太郎(1847〜1923) 長騎府英語通弁役、横浜税関長、サンフランシスコ領事、外務省書記官、農商務省書記官、農商務省参事官、萬歳生命保険会社重役。
林道三郎(1843〜1873) 神奈川県典事、外務省初代香港副領事。
太田資政(1835〜1895) 清国派遣全権弁理大臣大久保利通附属随員。
頴川重寛(183I〜1891) 外務省三等書記官、文部省外国語学校訓導、東京高等商業学校一等教授、外務省清国特命全権大使附属通訳官。
神代時次(1831〜1894) 第2代上海領事代任(領事相当)、東京外国語学校教授、長崎外国語学校教諭。
清河磯次郎(1823〜1900) 外務省上等訳官、長崎裁判所権中属、同訳官。
彭城邦貞(1853〜1914)  外務省漢語学官、陸軍省通訳官、台湾総督府通訳官。

【教 育】
鄭 幹輔(1811〜1860) 大通事、英語研究、通事仲間をつれて長崎港に停泊中の米国船を訪ね、英語を学ぶ。近代国家発展のための人材育成に貢献。
呉 來安( ?〜1896) 外務省漢語学校教授、大阪裁判所嘱託、神道国学に精通し「古事記通玄解」等研究書を著す。後にこれら書物を一括して皇室へ献納。
何 礼之(1840〜1923) 洋学者、大坂府立語学学校校長、岩倉遺外使節団副使木戸孝允附属一等書記官、司法省高等法院予備裁判官、勅撰貴族院議員、『訳司統譜』序文撰書者。

【実業・その他】
陽 其二(1838〜1906) 我が国近代活版印刷術の開祖本木昌造と共に活版印刷事業展開、横浜毎日新聞社創設、王子製紙会社事業拡大に貢献、第一国立銀行嘱託、第2回・第3国内国勧業博覧会審査官。
何 幸五(I843〜1908) 神奈川県上等通弁役、神奈川県書記官、工部省少書記官、日本鉄道会杜創立時に貢献、九州鉄道会社経営。
彭城貞徳(1858〜1939) 洋画家。

(三)唐通事関係の文献紹介(一部)
唐通事会所日録 唐通事会所
譯司統譜              潁川君平
唐通事家系論攷           宮田 安著 長崎文献社
長崎唐通事(増補版)        林 陸朗著 長崎文献社
維新の澪標—通事 平井希昌の生涯   平井 洋著 新人物往来社

 

【記事執筆:陳東華(長崎中国交流史協会専務理事)】