第8回研究会(2012.1.21)

法政大学国際日本学研究所の「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」プロジェクトのアプローチ(1)「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」
第8回研究会『薬品会から見える日本意識』開催報告


報 告  川﨑 瑛子 (法政大学国際日本学研究所 学術研究員)

日 時  2012年1月21日(土) 13:30 – 15:30

会 場  法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

司 会  田中 優子 (法政大学社会学部 教授)

川﨑 瑛子 氏

出席者の様子

 

第8回研究会「薬品会から見える日本意識」

 薬品会とは宝暦7(1757)年に田村藍水によって始められた会である。これは本草学者や医者、薬種商などが中心となって珍貴な物や疑問のある物を全国から集め、それらの真贋を吟味し、情報交換を行う集まりであったとされている。従来の研究では薬品会によって藩を超えた学者同士の知的交流が活発になったとされており、それは「ネットワークの形成」という表現で語られることが多い。しかしこれは薬品会の開催によってもたらされた「結果」の一つに過ぎない。では薬品会の会場ではどのような意識が学者達の間で共有されており、如何なる場として薬品会は機能していたのだろうか。今回の研究会では「日本意識」という視点から薬品会の意義を見出していくことを目的とし、発表を行った。
宝暦12(1762)年に江戸湯島で開かれた薬品会では、主催者である平賀源内によって薬品会の開催と参加を案内した引き札が全国の関係者に回覧された。その引き札は江戸で開催される薬品会にも関わらず「大日本ハ神區奥域」という言葉から始められている。外国の風土と日本を比較する事で日本の深山幽谷が持つ神秘性が遣隋使の時代から至る歴史観と共に讃えられながら、日本に自生する本草が持っているだろう有益性を解明する事こそ薬品会の目的だとされている。
本草学は格物究理を根本とする朱子学の影響を受けながら中国で発展し、江戸時代になって日本にも導入されたのちは享保の改革によって経験に基づいた実用的な学問として展開されていった。享保の改革では日本の自給率を向上させる事を目的に全国の物産調査を行っており、そうした一連のプロジェクトの根幹となるのが本草学であり本草学者達であった。日本を背負って立つ学問としての地位を獲得するに伴い、中国由来の知識を抵抗なく日本の本草にも適用させてしまう事に警鐘が鳴らされるようになる。源内の師であり、薬品会の主催経験もある戸田旭山は、嘗て出版した『非薬撰』の中で自らの署名に「日本」という冠をつけている。旭山には自らが中国とは異なる文化と風土を持った場所で暮らす日本人であるという自意識があり、中国の知識に惑わされることなく眼前に広がる現実の事物から日本を発見していこうとしていたのではないだろうか。
このような歴史の末に回覧された源内の引き札の文言は、古典の知識に固執することなく目の前の事実に従って対象の本質を明らかにする場所としての薬品会の実態を示唆し、日本の自給率を向上させる方法を生み出す事こそ本草学が目指すべき目標の一つであるとしていた本草学者達の使命感と知的好奇心を鼓舞するものであっただろう。「大日本」という言葉から始まる引き札によって結びつけられた学者達は、薬品会の会場で全国から集められた実際の物を見て、それらが自生している場所の風土は勿論、そこで暮らす人間の民俗と物の関係性に関する知識と情報を交換しあうことによって、日本とは決して単一の場ではなく、環境が異なれば自生する植物も異なり、その栽培方法もまた変わってくるなど、様々な要素が複合し合いながら構築されている場所であり国だという認識を育んでいっただろう。質疑応答の場では、源内の引き札には日本に対する歴史観と実際の現在に基づいた国際意識が内包されており、開催案内に留まらない可能性が秘められているという議論ができ、薬品会の構成と実態に更に迫ることができた。
薬品会とは集められた物を鑑賞するだけの場ではなければ、物の良し悪しを決める品評会という評価に留められるべき会でもなかった。薬品会の会場では知識を持った人間達が物を媒介にして見聞を深め合い、会を終えた後には学者同士の地域を超えた交流が活発になっている。薬品会とは各々の学者が持っていた日本像が深化し、拡張されていく場であったと思われる。今後は薬品会の内部で渦を巻いていたであろう日本像と、薬品会によって本草学者やその近縁種の学者達が如何なる日本意識を持つようになったかを更に突き詰め、実証的に解明していく事により、近世の日本意識が変化していく一例を報告していきたい。

【記事執筆:川﨑 瑛子(法政大学国際日本学研究所学術研究員)】