第8回東アジア文化研究会(2011.11.30)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(3)「〈日本意識〉の現在−東アジアから」
2011年度 第8回東アジア文化研究会

日本近代美術史に関する一考察
— 彭修銀『日本近現代絵画史』を媒介として —

 

報告者: 川邉 雄大 (法政大学沖縄文化研究所 国内研究員、
二松学舎大学文学部 非常勤講師)
日 時: 2011年11月30日(水)18時00分〜20時00分
場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
司 会: 王 敏 (法政大学国際日本学研究所 教授)

            王 敏 教授              川邉 雄大 氏

日本近代美術史に関する一考察
— 彭修銀『日本近現代絵画史』を媒介として —

 本発表では先ず、彭修銀『日本近現代絵画史』(楊棟梁主編『日本現代化歴程研究叢書』、世界知識出版社、2010年3月。以下本書)について、内容紹介および書評を行った。
本書はおよそ330頁、全9章からなっている。

第1章 日本近現代絵画史中の諸概念考証
第2章 日本近代絵画の曙光—江戸時代
第3章 明治初期の絵画
第4章 明治美術の3指導者
第5章 明治中期の洋画
第6章 明治中期の日本画
第7章 大正時期の絵画
第8章 昭和前期の絵画
第9章 戦後の日本絵画
附録 近現代日本絵画史年表
日本近現代主要画家および著作一覧表
主要参考文献
後記

このように、本書は主に幕末期から現代までの日本の絵画史について述べているが、第3章から第6章まで明治期の記述であり、全体頁の3分の2近くを占めている。以下、第1章から6章までを概観する。
第1章では、明治以降の日本における美術・絵画・日本画・洋画等の概念などについて述べ、続いて第2章では、江戸時代の洋画について蘭学・司馬江漢などを例に述べている。
第3章では、明治初期の洋画の先駆者として川上冬崖・高橋由一を挙げ、当時の洋画塾・工部美術学校・南画の流行などについて述べている。
第4章では、明治美術の指導者として、フェノロサ・岡倉天心・黒田清輝の3人についてそれぞれ言及している。
第5章および6章では明治中期の絵画について、洋画では明治美術会・白馬会・太平洋画会といった組織を中心に延べ、日本画については画家では狩野芳崖・橋本雅邦、当時から始まった院展・文展などについて述べる。
このように、全体的には既存の日本美術史の域を出ない感もあるが、特徴として明治期に合計5回開催された内国勧業博覧会における美術部門の分類の変遷に注目するなど、日本美術の近代化について言及していることが挙げられる。
次に本発表では、明治以降、近代美術の範疇に含まれなかった書道について言及した。
明治15年、洋画家の小山正太郎が「書は美術にあらず」を『東洋学藝雑誌』第8〜9号に投稿し、書道を芸術の範疇に入れるべきか否かという議論が発生している。一方、書道界としても書を工芸品などと同列に扱われることをよしとせず、明治23年に日下部鳴鶴は帝室技芸院の技芸員の推薦を受けたが拒絶している。
明治39年中井敬所はこれを受け、書道界はその後、文展(文部省美術展覧会)加入運動を実施するが拒絶されている。
このように、明治期に美術と書道は対立を経て、それぞれ別の道を歩み、現在にいたっている。
だが、この書道や南画は、漢詩とあわせて三絶(詩書画)と呼ばれており、明治前期(日清戦争以前)にはむしろ江戸時代よりも盛んであり、維新後は中国から大きな影響があった分野である。
幕末期、日本人としては高橋由一・安田老山・長井雲坪といった画家がすでに上海に滞在しており、維新後は岡田篁所(医師)・副島種臣(外交官)らが滞在している。
明治9年、東本願寺上海別院が設置され、日本から派遣された布教僧の中にのちに書家となる北方心泉がいた。別院には、圓山大迂(篆刻)・巨勢小石(南画)・内海吉堂(同)・諫山麗吉(洋画)・吉嗣拝山(文人)・鳩居堂安兵衛(筆墨工)・大倉雨村(領事館)・岸田吟香らが寓居もしくは出入りしており、主に上海文人(海上派)と交流した。いわば別院は日中交流の場となっていた。
吉堂は「私が明治十年に支那へ参りました時分は、まだ日本でなかなか南画が流行つておりましたが、上海へゐつて見ると、画ががらりと変つて大に失望しました。」(黒田譲『名家歴訪録上篇』明治32年)と述べているように、海上派の評価は高いものはではなかった。しかし、心泉と大迂は、当時日本には殆どなかった北碑派の書風と鄧完白風の篆刻をそれぞれ日本に持ち帰っている。
一方、幕末期の長崎には、徐雨亭、金嘉穂、林雲逵ら中国文人が来日していたが、維新後は東京や京阪に、王冶梅・胡鉄梅・衛鋳生・陳味梅ら海上派文人が滞在していたほか、張滋昉・王治本・葉松石らが語学教師をしていた。また、明治10年には清国公使館が設置され、何如璋・黎庶昌・黄遵憲・楊守敬(明治13年来日)らが外交官として、日本文人との交流を開始している。
このほか、筆墨商の馮耕三(明治5年来日)は中国式の筆製法を、楊守敬は北碑派の書風をそれぞれ日本にもたらした。
その後、心泉と大迂は第3回内国博覧会(明治23年)に、それぞれ作品を出品・入賞する。当時の「圓山大迂書翰」(心泉宛、明治23年8月31日、金沢・常福寺蔵)には、「近時一六・鳴?及柯竹等之諸家輩出シ天下之書躰一変、世人刮目始テ六朝之妙所ヲ相覚リ申候。」と述べているように、碑学派が流行している。その後、第4回(明治28年)・第5回内国博覧会(明治36年)においては書道の衰頽が目立ち、明治30年代に碑学派が主流を占めるようになる。
その後も、書家では日下部鳴鶴・中村不折・長尾雨山・河合?廬らも渡清している。なかでも長尾・河合は西冷印社の会員となっており、呉昌碩ら中国文人と交流を深めた。
このように、日本の近代美術を論ずる場合、当時の書道・南画も範疇に入れて論じられるべきであり、この分野は中国からの影響が大きかった点についても留意される必要があることを指摘した。

【記事執筆:川邉 雄大(法政大学沖縄文化研究所国内研究員・二松学舎大学文学部非常勤講師)】

会場の様子