第1回勉強会(2011.6.23)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ(4) 〈日本意識〉の三角測量 – 未来へ」
2011年度第1回勉強会

『日本哲学へのベルクソンの影響—西田幾多郎と九鬼周造の場合』


  • 報告者: アルノー・フランソワ (フランス,トゥールズ第2大学)
  • 日 時: 2011年6月23日(木)18時30分〜20時30分
  • 場 所: 法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
  • 司 会: 安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所 所長)
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左:津崎氏(通訳),右:フランソワ氏

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安孫子 教授

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会場の様子

 

『日本哲学へのベルクソンの影響—西田幾多郎と九鬼周造の場合—』

去る6月23日(木)、18時30分から20時40分にかけて、法政大学国際日本学研究所セミナー室において、法政大学国際日本学研究所(HIJAS)の「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」プロジェクト・アプローチ(4)「〈日本意識〉の三角測量 – 未来へ」の第1回勉強会が開催された。
今回は、トゥールーズ第2大学専任講師のアルノー・フランソワ(Arnaud Francois)先生を迎え、「日本哲学へのベルクソンの影響—西田幾多郎と九鬼周造の場合—」と題して行われた。講演ではフランス語が用いられ、司会はHIJAS所長で法政大学文学部の安孫子信教授、通訳は日本学術振興会特別研究員の津崎良典氏が務めた。
フランソワ氏は2007年にPUFから出版されたアンリ・ベルクソンのL’evolution creatrice(『創造的進化』)の新版の校訂者で、最近ではBergson (Ellipses, 2008)やBergson, Schopenhauer, Nietzsche. Volonte et realite (PUF, 2008)などを上梓した気鋭の哲学者である。
報告の主眼はアンリ・ベルクソンの哲学が日本の哲学に与えた影響を、西田幾多郎の『善の研究』(1911年)と九鬼周造の『「いき」の構造』(1930年)を通して検討することであり、最初に西田を、続いて九鬼を取り上げて議論が進められた。報告の概要は以下のとおりである。

西田が初めてベルクソンの著作を読んだのは1906(明治39)年のことであった。その後、西田がベルクソンを本格的に研究することはなかったものの、『善の研究』には、「生の哲学」や意志(volonte)の重視といったベルクソンの影響が垣間見られる。両者のより具体的な共通点として挙げられるのが、(1)主知主義、(2)精神的存在の身体に対する優越、(3)「生の哲学」と意志(volonte)の重視、(4)科学に対する実用主義的な態度、である。
一方、『善の研究』において重要な位置を占める「純粋経験」や純粋哲学の概念を、スピノザ、ヘーゲル、ウィリアム・ジェイムズなどの著作を通して形成し、スピノザ主義の影響によって「思惟と実践の完全な一致」という考えを得るなど、西田の思想にはベルクソンの哲学以外の要素も大きく作用している。その結果、両者の間の埋めがたい溝として、西田側に、(1)経験科学を参照しない、(2)経験の総体を体系として確立しようとする、(3)自己分化、(4)ヘーゲル的な精神の働き、(5)自然の統一力の肯定、(6)シェリング的な意志の重視、という点が指摘され得る。
これに対して、生涯のうちにベルクソンと2度にわたって直接会った経験を持つ九鬼周造とベルクソンの関係は、西田とベルクソンとの関係とは異なるものであった。その理由の一つとして、西田が「不二一元論」に依拠し、個別の事象と普遍的な原理との間の同一性や身体を意識現象の一部とする一元論的な態度を取ったのに対し、九鬼は二元論的思考というフランス哲学の発想に共通する思考の様式を持っていたことが挙げられる。
九鬼とベルクソンとの共通点は、以下の3つにまとめられる。すなわち、(1)「部分から全体」ではなく「全体から部分へ」という意味における全体主義的思考、(2)唯名論、(3)所与の存在の不可塑性、可能態と現実態との間の「埋めがたい溝」の肯定、が九鬼とベルクソンとの共通点となる。
確かに、『「いき」の構造』において「内官」という語を用いていることからも(語はメーヌ・ド・ビランのものであるが)、九鬼とベルクソンとの関係は西田とベルクソンとの関係に比べてより密接であるといえる。また、「ある対象は近似的にしか意味し得ず、表象し得ない」という態度も、ベルクソンとの共通点をなしている。しかし、密接であるがゆえに相違点もより本質的で深刻なものとなって現れる。具体的には、九鬼の「いき」や「媚態」に対する態度は、フッサールの「本質直観」やハイデッガーの「存在の解釈としての解釈学」(「書かれたものへの終わりなき解釈としての解釈学」)を念頭に置いたものであり、これは端的な「直観」をいうベルクソンの実存に対する考えとは異なるものと言える。その意味で、「いき」は、九鬼とベルクソンとの間に生ずる接近と離反の象徴といえ、西田と比べれば相対的にベルクソンに近いが、決定的な点でベルクソンと相違するのである。

報告後に約30分間行われた質疑応答では、「ベルクソンにおける「表現」の意味」や「ベルクソンにとっての「歴史」」といった話題をめぐって討議が行われた。「ベルクソンにおける「表現」の意味」についての質問に対し、フランソワ氏は「「筆舌に尽くしがたいもの」をめぐるスピノザの議論は合理性と神秘性という二重性に陥ることがあり、ベルクソンも『物質と記憶』の中で「知覚されるためには知覚されないものも含まれている」と主張しており、言語とは全てを言い表せないために存在する」と回答した。
また、「ベルクソンにとっての「歴史」」という問いには、「ベルクソンにとって「歴史」が主要な話題になるためには長い年月を要したが、1889年の『意識に直接与えられたものについての試論』の時点で主題的ではないものの取り扱われている。九鬼が念頭に置いたのはディルタイの歴史に対する考えだが、ベルクソンは国際哲学会議でディルタイと対談した際に「歴史」の概念について話し合った。ディルタイにとってテクストは解釈の対象であり、ベルクソンにとっては生命を持った理解の対象であり、ディルタイとベルクソンの間を隔てるものは解釈学に対する態度である」という答えが示された。

今回の勉強会は、フランソワ氏が提示した「ベルクソンと西田の関係」と「ベルクソンと九鬼の関係」という枠組みを通して、日本の哲学者の思想の普遍性と特殊性、さらに特殊性を生み出した背景が明らかとなった。ベルクソンという哲学を基点として西田と九鬼の哲学を対照させたフランソワ氏の手法は、その意味で「<日本意識>の三角測量」というアプローチ(4)の研究に理論的な手掛かりを与えるものであった。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員】