研究アプローチ③第10回東アジア文化研究会(2011.1.13)
「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」
研究アプローチ3「〈日本意識〉の現在−東アジアから」2010年度 第10回東アジア文化研究会
「和同開珎の「同」「珎」と「圀」の文字から見た中日の文化交流史」
・報告者:王 維坤(専修大学文学部客員教授、中国 西北大学文化遺産学院教授、
報告者: 西北大学日本文化研究センター主任)
・日時:2011年1月13日(木)18時30分〜20時30分
・場所:法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室
・司会:王 敏(法政大学国際日本学研究所 教授)
王 維坤 教授 |
王 敏 教授 |
会場の様子 |
「和同開珎」の文字から見た中日の文化交流史
私は法政大学国際日本学研究所教授王敏先生のお陰を持ち、2011年1月13日に「和同開珎の「同」「珎」と「圀」の文字から見た中日の文化交流史」というタイトルで、講演した。この拙文は、じつはこの講演稿に基いて、加筆したものである。
さて、古代の日本人は、現代の日本人と同じように、非常に賢明だと言える。中国の漢字を含む外来文化を受け入れた時、そのまま受け入れたのではなく、ある程度選択して自文化に適合したものだけを模倣したのである。これこそ日本の文化的特質とも言える。その例として、「和同開珎」は元々「和銅開寳」とかくべきなのであるが、この貨幣を鋳造しやすくするために、それぞれ「銅」と「寳」を「同」と「珎」として省略と私は考えている。この点から言うと、「ワドウカイチン」よりもむしろ「ワドウカイホウ」と読んだ方が正しいと思う。
日本の常用漢字は、私の初歩的研究によると、大体三つの類型に分けられる。
一、「同字同義」という漢字
常用漢字の中でいわゆる「同字同義」という漢字は、日中で同じ漢字、同じ意味を指す。たぶん85パーセント以上を占めるかも知れない。次に時間があれば、私は詳しく計算したいと思う。しかし、僅かにいくつかの漢字は同じであるけど、意味は全然違う。例えば、「娘」は日本では「女の子」を指すのであるが、中国では自分の「母親」を指す。その意味は反対である。なお、日本の「手紙」は、中国の「トイレットペーパー、つまり衛生用紙」に相当する、という部分の文字を含まれている。
二、日本人に造られた「固有漢字」
これは日本人の知恵によって、自ら造った「日本の文字」で、「固有漢字」とも言う。数がそんなに多くはないが、意味が深いである。例えば、「辻」とは、中国語で表示すれば 「十字路口」(十字路の交差点)という言葉になる。この点から分析すると、日本のほうが良い、中国の方が結構、複雑である。また、「峠」という言葉は、山の頂上にある道路を表したと言えるけれども、中国では、この漢字を見たことがない。更に言うと、日本の「畑」(はたけ)は中国にはない。つまり、日本の「水田」の反対語は「畑」である。中国では「旱田」と言うが、字はまったく違う。日本は島国なのでおそらく魚偏に関する常用漢字がいちばん多いであろう。
三、意図的に変えた常用漢字
しかし、中国の漢字には、少しでも変えれば、日本の漢字になりうるものがある。一部の漢字は、ざっと見ると、中国の漢字と同じようであるが、実際、すこし異なるところもある。
例えば、中国の器物の「器」と日本の器物の「器」、中国の調查の「查」と日本の調査の「査」、中国の「惠」と日本の「恵」、中国の「德」と日本の「徳」はすべて異なっている。中国の文字は「会意」という構造原理で、「江」「海」「湖」「泊」はいずれも「氵」で、水の多い量を表すのである。水の少ない量を表示すると、いずれも「冫」になる。例えば、「冲」「凉」「冰」は日本の漢字と比べると、「沖縄」の「沖」、「涼子」の「涼」、「氷」の水の「氷」と異なるであろう。特に中国「臭」と日本の「臭」を比べれば、異なる所もすぐ見つかる。中国の「臭」字は「、」がある。これがあるかどうかで、意味が随分異なると思う。中国の「臭」という文字の構造原理は、二つの部分からなるのである。上の部分の「自」は、実際、「鼻」の象形文字で、下の部分の「犬」は、「犬」の象形文字である。この文字の構造をとったのは何故かと言うと、犬の嗅覚のすぐれたことを表わしたからである。ですから、中国の「臭」という字は、かならず「、」がある。もしこの「、」がなければ、「犬」ではなくなり、文字にならないと言える。これが漢字の象形文字の面白さであろう。だからこそ、中国では、日本のような「臭」字はない。
さて、このような観点から、「和同開珎」の「珎」(ちん)について考えてみると、日本の「和同開珎」の「珎」は、中国の「珍(ちん)」字の異体字ではなく、貨幣の「寳(ほう)」字の真中の部分の「珎」だけを採り、意図的に造った日本の漢字だと思う。ですから、この文字は実質的に、「寳」の上の「宀」冠、下の「貝」の部分を省略して、真中の「珎」だけを残して模倣したからだと思う。この文字は間違いではないであるが、やはり「貝」の部分を省略しすぎたと思う。何故かと言うと、貨幣としては、下の「貝」の部分が省略できないからである。例えば、貨幣の「貨」、通貨の「貨」、財布の「財」、遺産の「遺」などのお金に関する文字は、いずれも「貝」という部分が付いているはずであろう。中国のお金は、「貝」から始まったわけである。ですから、「貝」はお金の代名詞である。このことは賄賂の「賄」からはっきりと見ることができる。この字は「貝」と「有る」という構造であろう。つまり、「貝」が「有る」という意味である。貝があれば、賄賂ができる。ですから、貝がなければ、「賄賂」はできなくなってしまうであろう。いま日本人は、よく「袖の下」と言う。この言葉はもともとのお金の意味を一切含んでいないと思う。「珎」(ちん)という読み方を読みと、「珍しい」、「あまりみかけない」という意味で、お金としての意味は、付帯していないと言える。だからこそ、「珎」(ちん)よりもむしろ「ほう」と読んでいたのが正しいと、私はずっと考えている。換言すれば、日本の708年に鋳造した「和同開珎」の読み方の「わどうかいちん」を「わどうかいほう」と直すべきだと思う。
【記事執筆:王 維坤(専修大学文学部客員教授、中国 西北大学文化遺産学院教授、
西北大学日本文化研究センター主任)】